手を差し伸べるということ

手を差し伸べるということ

 ともすれば勘違いしてしまうことがあります。それは自分の定規で人を計っている証拠です。そして残念ながら、世の中にはびこっているB級ドラマや大人達の奇麗事の大半は、この勘違いというもので彩られています。
 ある車椅子の陸上選手の言葉です。
「目が悪い人は眼鏡を掛けるでしょう?」

 バリヤフリーやら公共福祉やら、例によって単語ばかりが先行していきます。その言葉を使う時に「お年寄りが」とか「不自由な方が」と言います。でもそれは本物なのでしょうか。
 僕は、わずかな期間ですが車椅子に乗っていたことがあります。でも今の僕を見て、その姿を想像できる人はいないでしょう。逆を言えば、明日あなたが車椅子なしで生きていけなくなったとしても、それは「眼鏡を掛ける」ようにごくありふれた出来事なのです。
 この言い方では語弊が生じるでしょうが、敢えてこう言わせてください。
「車椅子に乗っていたって健常者じゃないか」

 言葉のゲームの話ではありませんでした。でも、ともすれば皆がこの言葉の曖昧さに目を眩ませてしまうでしょう?本質はどこにあるのか、それが大事だと思うのです。
 「知る」ということはとても大事です。何も知らない身で、人を傷付けるような発言をその人の前でしてしまったことがあります。幾度もあります。その度に後悔ばかりが募ってきました。同じ過ちを繰り返して欲しくないので、皆さんにこのことを伝えたかったのです。

 さて、本題です。あなたの身の回りを見回してみてください。
 このところの大きな施設、とりわけ国や地方の作った施設には必ず車椅子の人や目の不自由な人のための設備が付加されています。当然ですね。
 じゃあ、その施設まで行ってみましょう。
 どうやって?
 何故車椅子の人を街で見掛けることが少ないのかといえば、車椅子の人はそこへ出かけることが難しいからです。出られないんです。何がおかしいといって、扉のない部屋ほどおかしなモノはありません。 

 もう一つ、こんな事実があります。
足腰が弱い人がもっとも辛いのは階段を下るという動作です。立っている状態から更に足を伸ばさなくてはならないからです。
 でも駅のホームにある下りのエスカレーターは、上りよりも少ないのが普通です。あれはつまり、足腰の弱い人のためのものではないということが、これで知れるわけです。

 こんなことは、ちょっと調べればすぐに分かることです。なのに何故いつまでたっても事態が変わらないのでしょうか。
 ここでタイトルの「手を差し伸べる」について想像してみてください。
 上(もしくは斜め上)からの手が、下(もしくは斜め下)の手に向かって伸びてくるところを思い浮かべた方は御用心を。

 あなたの方に、誰かを引っ張ってこようとしていませんか?

 なんでも自分の定規で見てしまう、そんな悪い癖が我々にはあります。それは仕方ないことでもあります。でも、ならば尚更、「私はあなたのことを考えてあげました」という態度は許されないと考えるべきでしょう。
 だって何も分かっていやしないのだから。