バリアフリーの罠

バリアフリーの罠

 現代人は(日本人に限らず)言葉が先行することが多いようです。「バリアフリー」という単語も随分と市民権を得てきました。
 以前ここに書いたように、僕は「この手の」問題には関心があります。興味を惹かれて、さて何を言おうとしているのかな?と注意深げに眺めてみると、ところが思いのほか世間の「バリアフリー」とやらは、そりゃもう情けないばかりで吹き出しそうになります。
 随分と前から、デザインを学んできたつもりでいますから、世間でいう「バリアフリー」とやらは決して新しいものではないと知っています。確かに、僕が高専にいた頃にはなかった言葉です。ですが、僕は高専の時代に「車椅子の動作半径」であったりとか「目の不自由な人のための時計」であったりを授業として見せられました。こんな事は当たり前に思い付かなければいけない、デザイナーはこんな事を考えてデザインしなければいけない、と学びました。
 当たり前のことなんです。例えばボタンに突起をつけるとか、音が出るようにするとか、「よいデザイン」にしようと思ったならば、思い付かなければいけないはずのデザイン要素なんです。
 敢えて断言します。「バリアフリー」とは、デザイナーの無知と怠慢を表わす言葉です。少なくとも、僕がならば、自分のデザインにこんな侮辱的な形容詞を付けさせません。

 日本の(特に義務教育における)美術教育は壊滅的です。声高に「バリアフリー」を唱えているのは、その代償です。根本的な問題点を指摘しない限り、同様の単語が流行のように生まれ、消えるだけです。その意味で「ユニバーサル・デザイン」という単語も長くは続かないでしょう。

 では、根本的に、今の「デザイン」には何が欠けているのでしょうか?

 僕にはその答えをここに記せるだけの度量はありません。ただ言えるのは、昔から優れたデザインのものというのは大抵、全ての人々に優しいものでありました。人が暮らしを便利に、豊かにしていくためにデザインしているのだから当然です。逆にある特定の人の有利・不利のために作られたものは、いずれ武器となります。それは法律などによく見られます。
 僕もよく勘違いしてしまいますが、「体が不自由なこと」=「不利」とは限らないんです。その発想のもとには「自分(不自由なない人)は体が不自由な人より有利なんだ」という感情が間違いなくあります。人生を他人と比べて競い合うことは無意味ですし、人間の価値なんて多様すぎて判断できません。有利も不利も何もかにもイカもタコもないんです。
 だから、優れたデザインは全ての人に優しいんです。そこには最初から「バリア」はないんです。