一億総知識人時代

「ファミコン世代」の僕達は、「生命」に関しても「ゲーム感覚」で、「現実認識が著しく低い」らしいです。「いじめ」もゲームであり、「漫画」や「TV」などの「マスコミ」の影響からこういった風な人間に成長してしまったとも言われています。

 もう、うんざりです。

 討論形式の番組が、ちょっと流行っています。一般の人々でも自由に発言できる時代です。自由に討論をして、見識を広げる。素晴らしい時代が来たように思えます。
 ただし、それ自体が消費財でなければ、の話ですが。
 討論形式の番組は、ちょっと視聴率がとれます。出演料が無料で済む素人を呼んできて、辺り障りのない範囲で一喜一憂するトークを繰り広げてもらえば、あっという間に時間を埋められます。
 これが、消費というものです。

 発言することは素晴らしい、と僕は思います。なにより、それでなければこのページの存在自体が空虚なものになってしまうからですが、ある問題に対して気持ちを整理して自分なりの見解を持つことは有益だろうと考えます。ただ問題なのは、皆が自分の意見を持てたらよいのですが、必ずしもそうではない、と言うことです。
 自分の意見が持てない、ということも恥ずべきことではありません。なんでもかんでも自身満々に自説を唱えられたら、それはそれでちょっと怪しい。否、怪しいかどうかはともかくとして、例えばその問題に対して何の見識も無いときなどは、どう考えても意見を持てる筈がありません。
 そんなとき、人はついつい「声の大きい」意見へと傾きがちです。大多数であったり、有名人の発言だったりすると、どうしてもその意見が「常識」のように思えてならなくなります。これはとても危険なことです。
「ファミコン世代」と呼ばれた僕の家には、ファミコンがありません。この矛盾を、世の知識人と呼ばれている人達はどう解釈するのでしょうか。僕が異常なのでしょうか。僕は世間に対応しきれていない、欠陥のある子供だったのでしょうか。マスコミの影響を受けているのは、僕らの方なのでしょうか、それとも僕らを「ファミコン世代」と呼んだ人達の方なのでしょうか。
 討論形式の番組は、騒ぎ立てて終わり、というものがほとんどです。パネラーや司会者の中に意見をまとめるための交通整理をする人がいないからです。それはつまり、「面白おかしく騒ぎ立ててしまえ」という安直な製作者側の意図があるからです。テレビ番組程度で、思想を打ちたてたりしても仕方ないからで、視聴者もそれを望まないからです。巧く言ったもので、「堅苦しくなくて面白い、とっつきやすい」番組のために。
 そして、騒々しい場では、大きな声だけが残ってしまいます。冷静に考える暇も無く、仕方なく大きな声に従ってしまう人が出たとしても、誰も気づかない。本人も、そして視聴者でさえも。

 前回も書いたのですが、一億総知識人の時代です。一介の大学生である僕が、インターネットという公共の場に自分の意見を書く時代です。小林よしのりは僕のようにインターネットで持論を書く行為を評して「独り言が表に出てきた」といいました。一理あるなと思いました(が、納得してしまうとこのページの存在意味が無くなる、これもまた一理)。みんなが、発言することが許される時代。ですが、その一方でマスコミで繰り広げられる茶番的な討論があるのです。
 言葉は武器です。大切に取り扱いましょう。特に、表に出るときには。