世界遺産のある国(2)

 人間という生物、文明という特殊な生態系においては暴力が支配した時期が幾度と無く存在します。初めは理由が存在したのでしょうが、やがて理由無き虐殺へと行き着く暴力です。
 ポル=ポトは政治の手段に暴力を使いました。それがやがて更なる暴力を産み、カンボジアという国のために始めた行動が内戦を呼び、国民の1/3を失う結果を招いたのです。
 ポル=ポトの行為は博物館として残されています。まさしく彼が政治犯を収容していた建物に、彼が命を奪っていった人々の遺影が飾られています。傍らには、暴力が更なる暴力を産んだ異常な状態を顕著に表している、残虐な処刑道具の数々。処刑の手法はある程度以上になると従属者への精神的効果は薄れますから、むしろ処刑する側の意識を一定に保つために開発され続けたといっていいでしょう。
 彼はなぜ、政治に暴力を取り入れてしまったのでしょうか。

 現在、国連の平和維持活動が大きな問題に直面しています。世界のあちこちで起こる、複雑でデリケートで恐ろしい暴力に、その機能が役に立たないことが分かったからです。所詮、他人の家の喧嘩には第三者は口を出せないし、おせっかいで怪我をしたくはないからです。
 初めは皆、大義名分を持っているものです。それは他人が評価できるようなものではない、と大人ならどの国の人でも知っています。小さい頃、隣のクラスの子と喧嘩をするときに、いつだって自分は正しかった筈です。でもある時期に、ふと「相手にも同じように大義名分があるのだ」と気づいたときに、私達はその矛盾に悩むのです。
 暴力にはいつだって大義名分があったんです。善か悪かを裁くこととは別の次元で。
 僕はポル=ポトがカンボジアに刻んだ傷の一端を眺めるうちに、ポル=ポトが求めていたものはなんだったのか、と考えるようになりました。彼を一時でも支持した国民や、今でも彼の「政治」には間違いは無かったと信じる人の気持ちはどうなのか、と。

 それでも、彼は大罪を犯したことに変わりはないのです。それは彼が「暴力」を使ったという一点において罪である、ということです。

 「暴力は罪」。それは、国連があれだけ無能と叩かれても平和維持活動の必要性を信じることができる一点でもあります。
 ただ、平和維持の大義名分を持って「暴力」が行使されたときに、僕にはそれを「無罪」とできる根拠が見つかりません。

 有史以来、人類はこの矛盾と戦い続けているのかも知れません。