デザイナー・エンジニア問題の要約

エンジニア視点からみたデザイナーとエンジニアの間にある問題について、どうしても言いたかった意見を2つ書き散らしておく。

以下は野村の意見であり、立派な根拠や成功例を期待されても困るので予めお断りしておく。

デザインは(あるレベルまでは)理屈で説明できる

デザイナーの友人と飲み会でこの話をしたときには「デザインは理屈じゃねーよ」と一蹴されたが、それはデザインというものがなんであるのかを理解したうえでの話である。

ここで伝えたいのは、基礎知識としてのデザインの話である。テレビ番組の録画予約ができない人に対してリモコンの操作方法を説明しようとしたときに、「僕(私)には機械のことはよく判らないから……」といって耳を塞いでしまう方がいるように、デザインの話をすると「僕(私)にはデザインのことはよく判らないから……」と耳を塞ぐ方がいる。

これまでのWEBアプリケーション開発の体制の中では、それでも良かったかもしれない。だが、RIAの発達によってエンジニアといえどもデザインが何たるものかを知らなくてはならない時代は既に訪れた。それでもなお「理解できない」と怯えているエンジニアに対して、「デザインは理屈で説明できるから、怖がるな!」と言いたいのだ。大体、理屈に合わない非合理的なものがビジネスの世界で易々と生き残れるわけがない。デザインという工程がビジネスの中で確立されていること自体が、理屈が存在する、合理的側面を持っている証拠と考えてみてはどうだろうか。

具体的には、高校生レベルのデザインの教科書を紐解けばいくらでも解説が見つかるので、本を読め!学べ!としておこう。

その基礎的な知識の上に立ってデザイナーは、更に感性を磨いてデザインを完成させている。このレベルに立って初めて「デザインは理屈じゃねーよ」と言える。もしも、デザインは理屈じゃないと言いたいのなら、基礎の部分は超えていただかないと始まらない。その意味でも、デザインはRIAエンジニアの必須科目といえよう。

デザイナーはエンジニアの味方

RIAアプリケーションの開発において、というか開発においては「開発側」の人間は全員がチームであるべきだ。みんなゴールが同じなのだから。

プロジェクトがうまく回らなくなってくると、どうしても状況の悪化を「誰かのせい」にしたくなる。えてして根本的な「敵」は姿が見えづらいところにあって、見えやすいところの「歪み」を捕らえてケチを付けだしてしまう。野村も大いに反省するところだ。

デザイナーはエンジニアとは違う義務と責任を追った役割である。だからどうしたって、考え方が違うところが出てくる。締め切りについて、フィニッシュについて、ポイントが違ってくるのは仕方がないことだ。

だが、最終的なゴールは「いいものを作る」ということで一致しているのならば、違うポイントが出ようとも構わないはずだ。それらを全て満たせば完璧なものに近づいていくわけだから。自分と違うポイントが目の前に現れたときに、それを排除するのではなくむしろ取り込もうとするくらいの気概が欲しいものだ。

敵がいるとすれば、ゴールが違う人間がそれだ。最終的にはいいものを「作らなくてもいい」と考えている奴が敵だ。

当たり前のことだが、開発の現場ではそんな人間をみることはまずない。そういう人間はモノを作らないからね。だがプロジェクトのどこかにいないとも限らない、……らしいよ、よく知らんけどね。

「20世紀少年」はサスペンスではない

もう先週の出来事だが、映画「20世紀少年」を観た。原作も全部読んだ上で映画を観たので、多くの人が指摘している「判りづらい」などの心配はなかった。

それにしてもこの作品は非常に勘違いされていると思う。原作は、歴史に残るような大作ではない。だって「科学冒険漫画」と上にわざわざ書いてあるんだよ、作品自体が作者の少年時代に対してのオマージュなのに、いわゆる大作なわけがない。

なので、「20世紀少年」の鑑賞方法としては大げさでもったいぶった演出やストーリー展開を楽しむのが正しいと考える。この作品に緻密な推理とかを求めてはいけないのだ(それなりにはあるけど)。

で、映画館で観るべき映画かといえば、……かなり微妙。普通の皆さんはテレビでどうぞ。