知的活動領域(追記)

昨日の日記はiPod Touchで書いた。書いている途中で就寝時間になってしまったので、なんだか訳のわからない文章になってしまったので補足する。

Twitterはフラットな会話(つぶやき)の展開がある場所で、例えば野村が著名な方のTwitterに対して賛同したり反論したりしても、全く問題ない、むしろOK!という文化が形成されている。2ちゃんねるだとヤジにしかみえないがTwitterは「野村がつぶやいた」という記録として残せるところが大きい。気軽さと、責任が適度なバランスで成り立っている。

Twitterは適度な責任感が、単なるヤジを一歩推し進めて「自分の意見」へ昇華させる手助けができる。単に人の意見を丸投げするだけでもいいんだが、まず情報の取捨選択という時点で自分の意見が反映されるし、そのうち自分の意見を書き加えたくなる(何せ全てが「入力フォーム」で繰り広げられているから)ように低いハードルが設定されている。

別にTwitterをほめる文章を書きたかったのではなく、こういったシステムを作り出すことができるインターネットって改めてすごいと思ったのと、こういったシステムに簡単に手が届く時代になったことがすごいんだ、と書きとめておきたかったのだ。

例えばこれは野村の日記だから、野村の思考や感情を書き留めておきたい。そういうシステムを欲していたからここに記載している。その延長線上に、もっと多くの人々の有象無象の思考や感情といった知的活動が存在していて、なんとインターネット上の様々なシステムは、それらを入手し、選択し、賛同したり反論したりしながら自分の知的活動に取り入れることができるようになってきているのだ。

インターネットの、この知的活動を大きく広げることができるパワーを当たり前に使いこなして育っていく世代の人々は、一体どうなっていっちゃうんだろう。それを考えるとワクワクする。

全然関係ないが、昨日日記を書いて分かったことがある。iPod Touchで書けるのはTwitterが限界だ。まとまった文章を書くには全く向かない。この点がこれまでのPDAより劣る部分だと感じる。入力に対する手軽さが全くなくて、道具が思考を妨げる感じ。慣れの問題?本当に?