「不要なもの」としてのサービス

インターネット上では新しいアイディア、仕組みを持ったサービスが次々と生まれている。発表されれば「革新的だ」「今までに無かった」といった煽りが使われ、生き残れなかったサービスは「新しすぎた」(または「劣化コピーだった」)「用途が無かった」と云われる。

サービスは道具だから、使い込んでいくことに意味が生まれていくもののほうが多い。だが、あまりに「新しい」サービスが日々登場するためか、そのサービスを自分のライフスタイルに組み入れることは非常に難しくなってきている。きっと、今発表されているサービスの多くは現代社会においてすぐに必要とされない、「不要なもの」だということだろう。

様々なサービスを使いこなしている方々のうちの何割かは、大変表現が悪くて申し訳ないが、実は「不要なもの」のいくつかを上手にライフスタイルに取り込んでいる方々だと云える。それが現代社会の「ゆとり」であり、文化の発展に大きく寄与している部分であることは歴史が証明しているから、そこになんら問題などはない。

もしもサービスとして生き残るために、ユーザーに日常的に活用してもらえるサービスであろうとするならば、ユーザーのライフスタイルに入り込む必要がある。ライフスタイルに変革をもたらすか、あるいは生活上でそれまで空位だった部分に入り込むか、だ。前者にせよ後者にせよ、「不要なもの」を習慣化させるためにユーザーのライフスタイルに切り込んでいくのだから、ハードルは高い。前述の「不要なもの」をうまくライフスタイルに取り込んでいる人々にしたって、一日は24時間しかないので空きスペースは僅かだ。

あるいは、サービスとして「一定の成果」を得るのが目的であれば、ユーザーに日常的に活用してもらおうと思わないほうがよいのではなかろうか。「不要なもの」であるサービスならば、飽きられて使われなくなったとしても問題は無いのだから、いっそうまく時代をすり抜けるように立ち振る舞うことで「印象」として記憶に留まってくれたほうがいいのでは無かろうか。「印象」はライフスタイルを壊さないし、時として実際の現象よりも美化されてくれることもある。

サービスは終わり方が難しい。立ち上げるときに「終わる」ことを考えがたい。だが、多くのサービスはいつしか終わってしまっている。作り手の言い訳として「時代に合わなかった」という弁は仕方が無いことだとして、果たして「不要なもの」を少しでもライフスタイルに取り込んでもらえるような工夫をしたのかを反省する必要もあるだろう。いっそ負け犬の遠吠えならば「すり抜けが目的でした」でも構わないんじゃなかろうか。ただ、格好よく立ち振る舞わなければ印象にも残らないということも忘れてはならない。印象にも残らなければ本当にダメだったということになってしまう。