2011

2011-01-31 1月に観た映画

なんだかクソ忙しいので映画を観る体力もかなり持っていかれてしまっているが、それでも宅配レンタルは律儀に8枚送ってくるので観ねばならぬのであった。

CGアニメ「9 ~9番目の奇妙な人形~」。キャラクターのパペットっぽいデザインがかわいい……のかな、とにかく表情が好き。内容は典型的な子供向け冒険ものなので(深みが感じられないのが残念だ)、ストーリーよりもキャラクターや世界の造形を楽しむべし。絵柄はまぁまぁといったところか。

ジェニファー・リンチ監督「サベイランス」。実は猟奇殺人ものだと知らずに観たのでちょっと凹んだ。というかね、サスペンスだと思ってじっくり観ていたら実は大した推理が要らなかった(ネタバレすんません)というね。リンチさん家の方々はこういうのが好きなのですかね。野村は普通の感性の人間なので、サスペンスならもう少し「サスペンド」させて欲しいですわ。

「アイアンマン2」。ネットとかで感想を読むと前作よりも評判が良いが、個人的には「1」と比べて展開がベタに感じられて少々残念な印象。アクションはバツグンなので、それだけで何度でも観たくなる映画であることは間違いない。2作続けて観るとぐっと来るのかも。

サンドラ・ブロック主演「しあわせの隠れ場所」。実は実話です、感動の実話、泣ける、アメリカンドリーム!……なるほどねぇ。確かに「良い話」なんだが、人間の感情のエグい部分がまったく描かれていなくて、今ひとつ登場人物たちが好きになれない。「いい人」過ぎる。登場人物がちょっとだけ茶目っ気を出すように自分の暗部を告白したりするが、「そんなきれいごとを!」と言いたくなる。サンドラ・ブロックの演技が素晴らしいという感想を見かけたが、そんな理由によりあまり「演技」に注目できなかった。

安全安心エンタメ命でおなじみ、ジェリー・ブラッカイマー印の「プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂」。見所はもちろんアクションなのだが、ゲームが原作ということでゲーム上の設定(屋根の上を走り回ったり、「時間の砂」を使ったり)がメインで使われているので、これが納得できれば楽しい。

ボーンシリーズのチームが作ったというマット・デイモン主演「グリーン・ゾーン」。ちなみにボーンシリーズは第1作目で深き眠りに落ちたために以降の作品も観ることが出来ず、なんでボーンシリーズは人気があるのか自分には検討もつかず。で、この作品の見所は前半で、大量破壊兵器を探す緊張感が高い場面が続いて、マット・デイモン含め兵士たちの緊張と疲労が観ているこちらにも伝わってくる感じがすごくいい。反面、後半のマット・デイモンが何故か探偵ごっこ始めて、しかも役に立っていないというあの間抜けっぷりはどうなんだろう。オチるものもオチていないまま終了。後半全部書き直してくれー!と言いたくなる。

またしても伊坂幸太郎原作の「フィッシュストーリー」。伊坂幸太郎なので例によって「中二病」なストーリー。映画的には「ゴールデン・スランバー」よりこっちのほうが面白かった。それが決して多部未華子ちゃんが出ているからではなくて、複数のストーリーが絡むという「映画的なプロット」が気持ちよかったから。だが、2012年パートの気持ち悪さはちょっとないなぁ。役者さんのせいじゃなくて演出のせいだと思う。あと、1975年パートの主人公を演じた伊藤淳史が主演扱いな理由が分からない。複数のストーリーが絡むから面白いのになぜ1975年パートだけ特別扱い?まぁ日本国民は多部ちゃんが出ているというだけで観るべき。

高橋玄監督が様々な実例を基に警察の暗部を描いたという触れ込みの「ポチの告白」。3時間を超える長さを感じさせない濃厚な警察ドラマで、いかにも低予算な感じが途中ありつつも、ラストまでグイグイと観ている人を引っ張ってくれる。だが、観終わってみて最初に思ったのは「これはフィクションだ」ということ。そこが惜しいというか、なぜ「フィクションだ」と観客に気づかせてしまったのかが気になる。例えば周防正行監督の「それでもボクはやってない」の観客をバーンと突き放したラストと比べて、どうだろうか。

あと劇場で「相棒II」を観た。前の劇場版と比べて一転、ダークなストーリー展開。そして相棒ファンは観なければ次のシリーズが楽しめないだろうと思われるストーリー展開。これはずるい。ファンは観るべし。ファンじゃない方はまずは普通にTVシリーズを。劇場版はTVシリーズファンのための作品なので。

tags: マンガ・アニメ


2010

2010-12-29 12月に観た映画の話をしよう(3)

年末なのでTVでも色んな話題作を放映し始めた。それは嬉しいのだが、とてもじゃないが観ている時間がない。録画しておいて時間があるときに小出しに観るしかない。その点においては実は、途中でCM中断が挟まれる現在の民放の放送スタイルはむしろ有り難かったりもする。録画で観ているから、CMは飛ばしてしまうんだけどね。なんだか矛盾しているが、事実なので仕方がない。

さて、「ライラの冒険 黄金の羅針盤」。原作は全3部作らしいのだが諸般の事情によりこの第1部より後の映画化の話は無くなってしまったらしい。オーソドックスなファンタジーの世界観で、既視感と戦わねばならない部分も多々あるが、まぁすんなり物語にはのめり込めた。ただ、色んな謎を秘めたまま終わるエンディングだったりもするのだが(前述の通り物語自体には続きがあるため)、その割に強大な何かとか世界の生い立ち的な何かとか、そういった類の壮大な裏テーマみたいなものは全く感じられず。近年はファンタジー映画が若干乱立しているだけに、他の作品との比べるとインパクトが薄いなぁ。

そして紀里谷和明監督「GOEMON」。キター。もうね、観る前から「この映画はヒドイよ!」と分かっていたので、逆に安心して観ていられた。ストーリーがもっと希薄なほうが良かった。下手にストーリーやテーマがある風なウソを付かないで、割り切って「かっこいい絵だけで映画作りたーい」と言い切っちゃったほうがいいと思う。良くも悪くも日本で(世界で?)このテイストの絵作りが出来るのは紀里谷しかいないわけで、もうそれだけで押したほうがいいと思う。もっとアクションシーンだらけにして、なんならR-15指定にして血しぶきとか出しまくって、もう「絵だけです!」という映画にしたほうが観ている人にも何がやりたいのか伝わると思う。尺も半分でいい。

で、映画館に観に行った作品が「キック・アス」。R-15指定なので血しぶきとか残虐な殺戮シーンが苦手な方はちょっと覚悟したほうがよいが、オススメしたい。ヒーローに憧れる主人公が本当にヒーローになっちゃうというアクション・コメディで、映画全編にヒーローものの映画やコミックに対する愛が感じられる。映画が好きな人が映画好きのために作る映画とか、アメコミ好きがアメコミ好きのために作るアメコミとか、もうピュアすぎてイノセンスすぎて。ヒットガールにシバかれたいと思っちゃうわけですよ。

とりあえず今月はこれで映画は打ち止めかなぁ。年末にまだ観られる機会があるかも知れないが、とりあえずここまで。

tags: マンガ・アニメ


2010-12-27 12月に観た映画の話をしよう(2)

アル・パチーノとロバート・デ・ニーロ主演「ボーダー」。この二人の競演となればもっと注目されても良かった筈なのに、この映画が公開されていたことすら野村の記憶に無い……。それもその筈だ、この映画、それほど盛り上がらない……。演技は面白いんだが、逆にその安定感のせいか、全体的に予定通りにことが進み過ぎる。

ギリシャ神話を描いた「タイタンの戦い」と、ギリシャ神話をモチーフに現代を舞台にした「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」を偶然にも立て続けに観た。

「タイタンの戦い」は神話の世界をそのままVFXを駆使して再現するという趣向。この趣向ならば、例えば往年のスペクタクル映画を思わせる映画らしい壮大さが生まれれば吉、或いは「300」のようなどことなくファンタジーな雰囲気も吉だろう。ところが、往年のスペクタクル映画の様相ながらVFXを使ったせいでチープな印象を与え、ファンタジーとしては描写の妙が少なすぎる。特に、人間と神のスケール感があまりに近過ぎてつまらなかった。神を人間のスケールで描いたら、ぶっちゃけ人間みたいに見えてしまって盛り上がらない。そこが一番引っかかった。

ストーリーもスケール感を見誤っている。神話のエピソードから何を取捨選択するべきか、見誤っている。駆け足でエピソードをなぞられてもなぁ。

そこへ行くと「パーシー・ジャクソン〜」はズルい。まずスケールを人間サイズに統一してしまった。現代に神が居たらこうなるだろうという、「聖☆おにいさん」ばりのハッタリである。そして、主人公の少年にまつわるエピソードに終止させることで尺に収まっている。むしろ、なぜ題材がギリシャ神話だったのか、単にギリシャ神話と言いたかっただけなんじゃないか、というぐらいに神話関係ない。

それゆえに、全体的にチンケだ。特に主人公が成長しているフリをして全く成長しない、ちょっと苦労した風な出来事の5分後には全て解決するという典型的な「全能独裁者型(野村が命名)」のストーリーが安直さを醸し出している(この「全能独裁者型」についてはいずれ日記に書く、書きたい)。冒険をしているようで、一本道をガシガシ進んでいるだけのようなダルい印象である。

故にこの2作品、イマドキのハリウッド作品として考えれば「パーシー・ジャクソン〜」の勝ちと思う。そして、敢えていわせてもらうなら、こんなに長々と感想を書いたが、つまりどちらも面白くなかった。そして、メデューサの人気に嫉妬。

後はベニチオ・デル・トロとアンソニー・ホプキンス競演の「ウルフマン」を観た。観たときの体調が優れなかったせいか、とても眠い、眠い、眠い。雰囲気はまぁまぁ良かったのだが、とにかく長い、長い、眠い、眠い。一応ホラーなので、残酷な描写アリ。眠い。

さてさて、ここまでが宅配レンタルで借りて観た映画たち。今月はもうちょっとだけ観てますよ。

tags: マンガ・アニメ


2010-12-26 12月に観た映画の話をしよう(1)

作品をけなしてはいけない、けなしてはいけない、あくまで自分がその作品を観ての感想を書くんだ。と、自分に言い聞かせての12月観た映画の話を。

21世紀を代表する恋愛映画とまで呼ばれている「(500)日のサマー」。ここまで良い評判を先に聞いてしまうと、どうしても斜めに構えて観てしまいたくなる。自分の恋愛観と違うな、こんなシチュエーションはありえないな、などと斜めに構えたことを考えながら観続けて、そしてハッと気づかされた。この映画はイントロからラストまで、一貫して男の子視点でしか描かれていないんだ。なんということだ、野村が男の子的にアレコレ考えながらこの映画を観ていたという事実、それ自体が仕組まれていたことなのだ。これは確かに21世紀を代表する恋愛映画になるだろう、特に「恋愛映画なんて……」と思っている男の子にオススメ。

アル・パチーノ主演の名作「スカーフェイス」。すみません、未見だったのです。ギャングものの傑作で、さすがにファッションなど時代設定が古くて笑ってしまうが、ストーリーや演技はグイグイ引き込まれる。名作いいねぇ。

柴咲コウ主演「食堂かたつむり」。脚本や脚色は「何か」っぽいし、テーマ性が「何か」っぽいのだが、全体を通して結局それが「何か」っぽいまま終わってしまった感じ。未完成、あるいは間違った解答を見せられた感じ。原作未見なので(観ている間ずっとオリジナル作品だと思っていた。だってあまりにもストーリーがないんだもん)誰に突っ込みを入れるべきか分からないのだが、とにかく、間違っているよ、これ。ダメです。ところでこの日記を書こうとスタッフなどの情報を検索したところ、音楽を担当されている方の名前が福原まりと書いてありまして……、やっぱりだSHI-SHONENの福原まりさんではないですか!

堺雅人主演「ゴールデンスランバー」は日本映画としては良作といえる。ハリウッドならもっとサスペンスものらしくトリックなどを突っ込むべき部分に、主人公たちの回想が入ってきちゃうあたりが日本っぽくて、苦手な方も多いんじゃなかろうか。だがしかし、これも原作未見ではあるが伊坂幸太郎なので恐らく原作通りなのだろう(違ったらごめんなさい、これの原作を読む気はあまりないです、本屋大賞だけど)。他の日本映画と比べて役者の演技がとても良いと感じられたので、マル。

今月はまだまだ映画観ているので、今日はいったんここまで。

tags: マンガ・アニメ


2010-12-20 野村流・物語の作り方(「巻き込まれ型」編)

唐突だが、この悶々とした師走の空気の中、かねてより何処かに書き留めておきたかった「巻き込まれ型」の物語のポイントについて、ここに記そう。この通りに物語を作れば、あなたもイマドキのストーリーテラーになれるかも!

「巻き込まれ型」の物語とは、昨今の男性向け、女性向けのコミックやライトノベルを含む比較的ライトな小説、ドラマや映画などに見られるプロットのうち、主人公が「巻き込まれる」ことで物語が進行するタイプのものについて野村が独自でつけた呼称である。もしかすると学者や団体などによってそういった類型を呼称する尺度やネーミングが作られているかもしれないが、野村はそんなことは知らないので勝手に話を進めさせてもらおう。

特にゼロ年代以降の「巻き込まれ型」の特徴として、主人公Aは無気力で事なかれ主義な省エネタイプで、他人に干渉しないという主義を持ち、人生の目標が無難、中立、普通、安定といった類の方向に定まっている。友達がいないわけでもなく、さりとて人気者というわけでもない。頭脳も普通(バカではないが超がつく天才でもない)、運動神経も普通。

そんな主人公Aがある日ばったり出会うのが破天荒で常識に捕われない、次の行動が予測できないタイプの人物である。これを人物Bとしよう。同性でも異性でも構わないが、大抵の場合主人公Aよりも美形で、運動神経か頭脳か或いはその双方が優秀で、にも関わらずその長所をまともな方法で生かそうとはしない人物だ。主人公Aは人物Bに「巻き込まれて」災難に遭うところから物語は始まる。

主人公Aは人物Bについて、最初は反りが合わず出来るならば遠ざけたいと思っている。だがどうしても離れて行動することができないし、人物Bは主人公Aに対して馴れ馴れしい。人物Bの言動に次々と巻き込まれていく主人公Aは、やがて人物Bの行動原理や目的、または人物Bの出自など思考を形成するバックボーンに気づき、同情し、同調するようになる。そして訪れるターニングポイント、主人公Aは人物Bのために自らの信条を曲げてでも事象に関わろうとするのである。

さて、この手のプロットでは主人公Aは凡庸でありたいと考えていた筈なのに、なぜ先の見えない人物Bに加担するように心が動くのだろうか。そういう物語が世の中に多いという事実それ自体が語っているように、多くの人が「凡庸であることが世間では正しいとされているが、本当は型を破りたい」と願っているからではなかろうか。

物語を書く際の手法の一つとして、その時代の読者層に合わせた登場人物を出すことが挙げられる。こうすると感情移入がしやすくなるからで、上記の「巻き込まれ型」の場合は主人公Aがそれに当たる。言い換えれば主人公Aは日常で、対する人物Bは非日常を表現していることになる。非日常はこの物語を物語たらしめているフィクションの部分である。フィクションが魅力的だから物語を読むわけで、つまり人物Bは主人公Aと比べて非日常的で魅力的だ、ということになると野村は考える。

この「巻き込まれ型」の物語、最近では実に多くなってしまったが故に陳腐化した感も否めない。だがかつての勧善懲悪ものと同様に、ゼロ年代の王道プロットとして、確実に生き残っていくことだろう。ぜひこのプロットで、誰か面白いの書いてくれ。

tags: マンガ・アニメ