2010

2010-08-18 日本語キーボードってなんだろう

キーボードというものはかなりレガシーなデバイスだと思う。進化しているようにみえない。QWERTY配列でほぼどのキーボードも同じような形で、現代のPCを扱うにあたって「人間が機械に合わせる」必要があるデバイスとして今も作業スペースのど真ん中に鎮座する。

いや、便利だよ。便利だけど、それはもう自分が「キーボードのある暮らし」に慣れてしまったからなのじゃないかという疑問は拭えないわけで。その次は手書き認識か音声認識か脳波デバイスってことになってしまうだろうか。もう、文字を打つという行為自体が違う形に変わるまではこのままなのだろうか。

とりあえずキーボードが別の形に進化するにはまだ相当な期間を要するとして、では日本語キーボードってなんなのだろうか。

日本人のために特殊なキーをそこかしこに追加した日本語キーボード。野村はこの日本語用の特殊キーがとても苦手だ。

英語配列キーボードでも日本語は打てる。キーボードから入力された信号を受け取ったOSが、そのキーに対応した動作を開始するだけだ。つまり日本語キーボードというのは、英語配列+日本語向けショートカット付きキーボードに過ぎない。ただでさえキーの数が多いのに、そんなショートカットは邪魔じゃないか?なんでそんな無駄なキーが「標準」のような顔をして鎮座しているのだろう。

日本では英語配列キーボードが劣勢だ。ということは、それだけ多くの日本語圏のPCユーザーが、あのショートカットボタンが便利だと思っているのだろうか。変換候補やF7キーなどを使わずに「かな/カナ」を押してカタカナを入力しているのだろうか。IMEをオフにしないで「無変換」を押すのだろうか。というか、日本語配列を使わないので、それらのキーを押すと何が起こるのか想像できないのだが、みんな使いこなしているのだろうか……。

tags: PC


2010-08-03 音楽と書籍のデジタル化はちょっと違う

音楽コンテンツと書籍についてちょっと考えてみた。

音楽については、CDは売れなくなってダウンロード購入が(一応)一般化した。この変化の原因のひとつには、ポータブル再生機器(iPodやケータイ)の普及があると思う。ポータブル再生機器で音楽を楽しむ人にとってみれば、コンテンツは最終的にこれらの再生機器に対応するフォーマットへと「加工」されてしまう。つまりCDという物理メディアはコンテンツ運搬用の単なるコンテナに過ぎない。

もっといえば、CDはそれ単体で音を発することができない。何か再生機器がないと機能しないメディアだ。

一方で書籍は、物理的な紙媒体での販売はすなわちアウトプット自体の販売だ。そこから更にひと手間加えなければコンテンツとして機能しないCDとは違う。

音楽のダウンロード販売は、コンテンツ運搬用のコンテナが変化したものだったのではないか。その着地点は、実はCDとさほど変わっていないのではないか。一方で、書籍の電子化はコンテンツのアウトプット自体を変化させている。まずコンポやポータブル再生機器の提案が始まっている、という段階なのだ。

iPadすげーとかKindleすげーと云われているが、それらが今後どんどん変化していく可能性の方が高いわけで。物理的な形、マン-マシン-インターフェースとして、完成形だと自信を持って云える人の方が少ないんじゃなかろうか。

なので、書籍の電子化と音楽のダウンロード販売は、似ているけれどもまだちょっと違うよなー、と思った。

tags: 音楽


2010-07-26 CDを捨てる決意

久しぶりの日記である。今日は現在進行中の壮大な計画について書く。

中学生のときに初めて買ったTM Networkの「Seven Days War」のシングルCDも含めて、今日まで買ったCDの全てを捨てずに持っていた野村であるが、そのコレクションの大半を処分することにした。

理由は、その体積が生活空間を圧迫しているから。代わりにそれらの音源はデジタル化して保管することにした。音楽の価値は(圧縮時に欠落する情報があるにせよ)それほど下がらないだろうと考えたからだ。ライナーやジャケットを手放すのは忍びないが、棚晒しにされて陽に焼けている時点でどうかとも思うし。

で、毎日十数枚ずつ棚から下ろしてリッピングするという作業を繰り返している。CDの量は以前の半分くらいにはなったろうか。まずはジャケットやライナーが気に入らないもの(廉価版、汚れが酷いなど)や、人気が高すぎてわざわざ自分が所有していなくてもすぐに何らかの手段で再入手可能と考えられるもの(サザンなど)、今や化石といえる8センチCD、後は自分でも何故これを所有しているのか分からないくらい趣味の悪い作品(具体例は……いえない)から始めた。

CDをMacBook Proに差し込んではリッピング……、という機械的な作業の繰り返しは、CDという物質の価値について考えさせられる。次々に積まれていくCDを見ていると、その物質とともに過ごした日々が思い起こされる。だが仕方ない、もうこれ以上CDは棚に入りきらない。そして、CDという物理的なメディアを購入し続ける限り、この廃棄という行為はいずれまた行わねばならないのだから。

問題はこれからの音楽を購入する方法だ。iTunesなどからダウンロード購入するのも良いが、日本では思った以上にDRMフリー版の販売が少ないし、Sony系列はいつまでも頑としてiTunesには配信しないし。結局CDを購入してリッピングしてそのCDを手放すという、かなりエコ(エコノミー、エコロジー)的に無駄な行動をとることになる。こんなに文明が発達しているのに、無駄と分かっていることを強いられるのはどうなんだろう。

ところで、CDを大量にリッピングすると、CDの質によって明らかにリッピングの作業スピードが左右されることが分かる。保存状況にもよるのだろうが、80年代後半のCDは最近のCDと比べてエラー補正していると思われる時間が長く感じる。また、いわゆる激安CD(高速道路のサービスエリアで売られていたりする)もエラーが多いみたいだ。CDにパッケージされた時点で情報はデジタルに変換されているはずなのに。CDの盤面をみて「うん、このCDの焼き具合はいいね!」みたいなことをいう人がいる、っていうのは都市伝説なんだろうと思っていたが、思った以上に深刻な違いがあるようだ。野村も今度からCDをみたら焼き具合を確認してみることにしよう。「うん、これはレアだね」とか。

tags: 音楽


2010-07-03 生きてます

日記が全然書けない……。どうでもいいことは全部Twitterで言い尽くしてしまうからだろう。

日記がライフログにならないというのも皮肉なものだが、だからといってTwitterの内容を日記にコピーするのも芸がない。

時間があれば日記に書こう思っていた話題としては、「映画『宇宙ショーへようこそ』の感想」とか(お仕事させてもらったので実は試写で観ております)、「プロトタイピングを実践したい」とか、「ベランダのトマトが」とかあるんだが。

tags: 生活


2010-06-14 「はやぶさ」の凱旋

小惑星探査機「はやぶさ」(MUSES-C)は2010年6月13日、22:51に大気圏へ突入した。

野村はニコニコ生放送のオーストラリア中継を観ていた。わずか数フレームの映像ではあったが、リアルタイムで「はやぶさ」の大気圏突入を観ることができたことに、感謝した。

成功なのか、失敗なのか。役に立つのか、立たないのか。地上では様々な意見が「はやぶさ」に対して向けられていた。

だが、「はやぶさ」はその最期の燃え尽きる瞬間まで「はやぶさ」であり続けた、やるべきことを全てやった。それが一番価値があることなんじゃなかろうか。

tags: 世の中の話