僕なんか、中学しか卒業していませんよ。それにこの大学を卒業するためにがむしゃらになろうとも思っていません。僕にとって学校とはそういう物です。
「学ぶ」ということの本質はなんでしょう。僕はここでしかやれないことのために、ここにいるのです。もしも、ここでそれが出来なくなれば他の場所に行くまでです。僕にとっての大学は、そういう物です。
無気力な学生が社会現象のようにクローズアップされて、ティーンエイジャーを語る評論家らしき人物は口を揃えて、「コンピュータ世代」とか「ゲーム世代」といいます。8ビット時代からコンピュータに触ってきた者から見たら、なんとも勘違いも甚だしいのですが、これが現実です。
でも、学生が無気力だと嘆く人たちは、学生に何を期待しているのか、分かりません。
ぼくはただ、きれいなけしきがみたくて、あのおかにのぼったのだ。
一所懸命に、ただひたすらに、僕は僕の目指しているものに近づこうとしていたつもりてした。その妨げになるのはいつだって学校でした。
大学に入って、「そうか、もうあんなくだらない体制側の言うことなんぞを聞かずに、勝手にやればいいんだ」と気づかせてくれたのは、先輩達でした。いちいち体制側のノイズを聞いている自分を恥ずかしく思いました。騙されたとも思いました。あいつらの言うことを真に受けてこんなくだらない人間になったのか、と思って腹立たしくなりました。
ぼくにとっての大学はこんなものです。
人脈は宝です。ここに来たことで、僕はそれまでの僕がうらやむほど、多くの素晴らしい人達に出会えました。僕は福岡に来て良かったと思っています。決して、大学に入ったことではなく、いろんな人と巡り合えたことが、です。
卒業というイベントが大事な人もいるでしょうが、僕にとってそれは重要なことではありません。やりたいこと、学びたいことがあって、それを研究できる場所と仲間が欲しいのです。
「祭り」はどこでだって出来ます。そんな面白いことができるのなら、呼んでくれたらどこにだって飛んでいきます。なんだってします。だから、卒業するのかしないのかは関係ないんだ。
ことさら卒業するのを拒む気はない。ただ、自分からそんな体裁を気にするようにはなりたくない。
1998年の「祭り」はなんですか?僕もいくつか企んでいます。あなたのその企みに、これからも僕の名前を加えてくれたら幸いです。僕も、そうします。