ココロの自由

 中学や高校に通っていた頃に、声高に唱えていた「自由」という奴は、なんともちっぽけで情けないものであったのか。今になると赤面です。
 「自由」を唱えるということは、何かに対して「不自由」を感じているということなんでしょう。ということは最近、義務教育の現場で叫ばれている「自由」やら「個性を尊重する」風潮は、何かしらの反省に立っているものと考えられます。つまり、僕が義務教育を受けていた頃に望まれていた「自由」、僕らが「不自由」と感じていたものの反動です。
 それは何か。
 当時の僕らを縛っていたものは校則であったり、偏差値でした。学歴偏重であり、就職協定であり、終身雇用あったのです。つまり社会機構が合理化を求めるあまりに、画一化された教育、マニュアル志向、権威主義を貫いていたことへ、僕らは反発したのです。僕が高専を飛び出した1994年、バブルが弾けて、拓銀に関する良からぬ噂が流れ出した頃です。
 現在は違います。状況は一変しました。バブル後の企業は旧来の雇用体制、終身雇用では会社にとって不利益であると考え、実力本位主義、能力主義への転換を図ったからです。初めに終身雇用がなくなり、学歴偏重が無くなり、就職協定は廃止され青田刈りが解禁になり、偏差値が意味をなさなくなりました。いずれは偏差値もなくなり、校則も緩くなっていくのでしょう。
 でも、それが本当に僕らの求めていた「自由」なのでしょうか。
 現在の状況が一変したのは、企業が変わったからです。教育が変わったからではありません。企業が変わった、変わらざるを得なかったのは、特殊な形で市場原理が働いたからであり、「水は低き所へ」のような当然の出来事だったと考えるのが普通でしょう。むしろ現在の教育現場で唱えられている「個人主義」や「自由な教育」は、あまりに未発達で危険な思想を付け焼刃で用いているように思えます。

 先日、アイヌ問題に関するささやかな討論会が催されていたので出席しました。非常にラフな討論会で、それ自体は非常に良かったと思います。参加された方の多くが、人権問題、性(ジェンダー)差別問題などと絡めた意見を言葉巧みに論じていたのが印象に残りました。ただ、同時に何か空虚な、空回りする討論が続いたようにも感じました。
 確かに多くの意見は、見識のある意見だと見ようと思えば思えなくもないです。が、使いまわすのに便利な言葉が繰り返し引用されただけのような意見も、少なくは無かったのです。はっきりいって、人権問題の討論会に出席するような人に、差別主義者がある筈がありません。だから人種問題に関する討論会の場で、「人種差別はいけない」と声高に唱える必要なないのです。
 一部の人が一所懸命に、突っ込んだ話題へと舵を進めましたが、その度に誰かが「事例」を巧みに持ち出してしまいます。繰り返し、繰り返し。世界中の、あらゆる歴史の潮流の中において人種問題は生まれてきました。「事例」を挙げればきりがないのに。

 TVに出る知識人が最も社会に無益な存在だ、と言ったのは誰なのでしょうか。そして今や一億総知識人です。僕もTVに出てもよいくらいのルックスさえあれば、知識人になれるでしょう。何故なら、現代の「知識人」とやらは「事例」を駆使して在り来たりのことを在り来たりに唱える人物ですから。

 教育とは、言うまでも無く「洗脳」です。社会のルールや倫理観を教え、ルールに従うように洗脳することを「教育」といいます。僕らが反発したのは、そのルールがあまりにも理不尽であったからです。
 さて、「自由な教育」で育った近頃の学生たちの、「自由な発言」はどんなものなのでしょうか。そんなものはあるのでしょうか。答えは残念ながら、極めて否定的なものです。現在の「自由な教育」は決して「自由な発想」や「自由な意見」を生んではいません。もっと言えば、「個性を尊重」した教育の成果による「個性的な人物」も少ないです。
 みんな知識人ですから、立派な意見を述べることには慣れました。でもそれだけです。発想の源は非常に希薄です。ちょっと目新しいフレーズを聞いたりするとすぐに感化されてそれを多用します。ちょっと知らなかった知識を手に入れるとたちまち流用します。自由なんかじゃない、自分たちには自由な言葉がないのですから。
 僕も、僕自身を振り返ってみて、考えるべき点が多々あります。例えば、ここに書かれている言葉のうちで自分の言葉が本当に「自分の言葉」であるだろうか。
 僕らは自由になりました。でもそれだけです。情報は街に溢れ、僕らの発想は悲しいくらいに不自由になりました。
 世界は広いのに、他人の通った後ばかり付いて行くというのも不思議な話です。冬、雪がスネの辺りまで積もった日の朝、誰かの通った足跡を辿って歩くと、雪に足を突っ込まなくて良いので楽なのです。でも、自分に明確な意思があって、しかも見てみると誰もまだ通っていない道で雪が積もっている、その時が来たら足を踏み出すしかないのです。その時が来たら、「ココロの自由」のために足を踏み出すのです。果たして、このことを義務教育は教えているのでしょうか。心配でなりません。
 義務教育を変えたのは僕らです。その責任を感じてなりません。