2010

今年のベランダ

左からアボカドの木、トマト、ゴーヤ、トウガラシにシソ

今年のベランダの様子を先ほどパチリと撮った。ちなみに我が家は食するためのベランダ菜園である。

左からアボカドの木、トマト、ゴーヤ。丸いプランターは上からトウガラシにシソ。

真ん中のプランターは空っぽ。ここはバジルになる予定。

右下の四角いプランターは昨年友人たちより戴いたもの。ポンプ付きで水が循環するかっこいい奴なんだが、このポンプが「手動でオンオフを繰り返せ」と説明書に書いてあって、……そんなヒマあるかーい!ということですんません、使い道がまだ決まっていません……。


制作者が語る「普通の人」とは

先日、あるWEBサイトについて友人たちとTwitter上であれこれ考察していたときにふと思ったのだが。

自分は今、ユーザーとしてWEBサイトを評価しているのか、WEB制作者として評価しているのか、あるいは両方なのか。

WEB制作というのは、普通の制作作業がそうであるのと同様に、使い手(ユーザー)を意識して作業を進めていく。ユーザーはこれを望んでいるのだろう、こう思うだろう、ここで感動するだろう、などと仮説を立てて制作を行う。

制作中に立てられた仮説は、実際にサイトが完成して公開されてユーザーが使い出すまで証明はされない。当然ながら。

いや、実際には使い始めてもなお証明はなされない。一般に効果測定ということでいえば、アクセス数や口コミ数(いわゆるバズですな)、会員登録機能があるならば登録数、ECサイトならば購入数といった数字で計ることができる。だが厳密な意味で云えば、「ここにAというムービーを置いたからアクセス数が増えた」という風に、やったこと(施策)とその効果が奇麗に対応付けられることは少ない。宣伝の成果かも知れないし、カラースキームを変更しただけで好感度が上がったのかも知れない。本当はユーザーが嫌悪感を抱くムービーを置いたのに、それ以外の施策がユーザーにとって魅力的だったのでユーザーは我慢してアクセスしているだけかも知れない。

では数値に反映されない部分の評価を、例えばネット上で評判を集めるとする。だが、ネットを利用しているユーザーのうち、ネットで情報を発信している人がどれだけいるか。残念なことに、WEBで話題になったサイトの評判を検索すると、上位に来るのはWEB制作者たちの評判だったりすることが多い。WEB制作者たちはWEB利用者としても優秀なわけで、利用者として純粋に評価してくれているのであれば確かに有り難い。だが、どうしても制作者視点や私情も混じるだろう(なにせ狭い業界なんで、誰が携わったとかすぐに分かる)、少なくともそういった疑いを拭いきれない。

ジャンプなどのマンガ雑誌が読者アンケートの結果によって連載作品の評価を決めるという話をよく聞く。マンガ雑誌の読者アンケートにハガキを送るのは、読者の中でも偏った層に過ぎないという噂も聞く。だが、マンガ雑誌の読者アンケートには漫画家たちや編集者たちが真っ先に投稿する、という話は聞いたことがない。

WEBは未成熟な世界で、今はまだ身内(ライバル含む)が身内を評価しあうことで鍛えあっていくしかないのかも知れない。だが少なくとも、自分たちがフツーの人なのかどうか、フツーの人はどう思っているのかは、常に疑ってかかるべきではなかろうか。


1996年に作った曲を晒す

10代〜20代の頃に作った自作曲を収めたカセットテープを処分することにした。かなり時間がかかったが、全てPC上に取り込んだ。

今回はその中から、札幌で浪人生(またはニート的なもの)をやっていた1996年に録音した曲を晒す。

元々MTR(マルチトラックレコーダーといって、市販のカセットテープを使って多重録音を実現する機械なのだが、知らない人の方が多いと思う)を使って録音されたものだし、残されていたカセットテープからデータに変換したので音質は良くない。

当時使っていた機材のほとんどが手元に無いため(いくつかは壊れてしまった)、もはや同じ音を再現することは不可能となった。もしも今録音し直せば、最初からデジタルで録音するので音質の劣化もないだろうが、まぁこの状態のものを記録として晒しておくのも悪くはないだろう。

今回晒すのは10曲入りのアルバム形式で作ったカセットの中から、「神話」というタイトルで作った6曲の連作である。インストである。確か当時、映画やゲームのサントラのようなアルバムを作りたかったんだと記憶している。各タイトルはギリシャ神話の美少年アドニスにまつわる物語からいただいた。別に美少年に興味があったわけではないが、ギリシャ神話の中でもメロドラマ調なお話だったので題材にしやすかったのだ。余談だが、メロドラマの「メロ」の語源もギリシャ語(メロス)という説があるらしい。余談の余談だが、野村が何故ギリシャ神話を読んだことがあるかというと、そもそも士郎正宗の「アップルシード」が……。

「神話」作:野村政行

  1. 不遇の子 Guilty Child (Love From Myrrh)
  2. 冥府の愛 Love From Persephone
  3. 夢見の地 Adonis’s Garden
  4. 涙の花 Rose (Tears Overflowed Aphrodite’s Eyes)
  5. 風の花 Anemone (He Became a Flower Named ‘Wind’)
  6. 春待ち Adonia Festival

ちなみにいつものとおり、この6曲ともにクリエイティブ・コモンズ・ライセンス(帰属 – 非営利 2.1 日本)である。


例のAppleの文章についての雑感

この雑感は、Packager for iPhoneを潰すための規約変更が覆らない前提で書いている。規約変更の話は脇に置いて読んでもらいたい。

個人的にはあのApple社(Steve Jobs氏)がFlashをiPhoneに搭載しない理由として掲載した、中途半端な文章は読み解くに値しないと思っていた。大体、アプリの話をしているのかWebブラウザ内のプラグインの話をしているのかすら定まっていない。従って反論も不要と思っていた。だがどうも話題が先行してしまっているため、このままではFlashについての誤解が広まってしまうかも知れない。

論点がずれたままの言葉の応酬に、世論が振り回されないようにしなければならない。なので件の文書の、前半のだらだらぐだぐだをすっ飛ばして、後ろにようやく出てくる「もっとも重要な理由」として掲げたサードパーティ製のミドルウェアを使って開発されると品質が下がる、という話に絞って考えてみる。

AppleがApple自身の価値(例えばAppのUIの品質など)を管理するのは当然だと思う。そしてその仕組みをAppleは持っている。App Storeがそれだ。アプリは全てAppleが独占的で恣意的な判断を下すことが可能なように、Appleの管理下でしか配布することが出来ないようになっている。

現に様々なアプリが様々な事情によりリジェクトされたり公開を停止させられている。アプリを申請する際には、バイナリ(完成品)は提出するがソースコード(一般的にプログラムと云われているのはこれのこと、ソースコードから完成品が作られる)を提出しない。だが、Appleはバイナリから何らかの手法で、そのアプリがどういう作り方になっていて、それがレギュレーションを違反していないかどうか、品質をチェックしている。

今回Adobeが発表したPackager for iPhoneという機能では、Flash Professionalで作られたものをアプリの形のバイナリに変換する。で、Appleは上記のように何らかの手法で「バイナリから品質をチェック」している。つまり、「アプリの品質の問題」はそれがFlashで作られたかどうかに関係なく、一律に判断することが可能ではなかろうか。

あるいは、その何らかの手法でバイナリーから品質をチェックするための機能が、Packager for iPhoneによって酷く負荷が高まってしまうなどの問題があるというのか。それならば、Adobeには辛いことかも知れないが最初から「ソースコードの提出」を義務づければ良い。品質をチェックするならソースコードからチェックする方が断然早い。最初っからそう云われていれば、Adobeもぐぅの音も出なかっただろう。だがAppleは、実際にはソースコードを提出させるほうがコストが高いのかなんだか知らないが、現状ではバイナリのみしか提出させない。

そもそも、現状のアプリのチェック機能それ自体が、本当に品質の管理を行えているのかも疑問だ。先日、あるサードパーティのライブラリを使ったアプリが一斉に公開を取り消される事態が発生した。理由はライブラリのソースコードの一部がレギュレーションに違反していたからだが、何故公開前の審査をくぐり抜けてしまったのかについてはAppleから何の情報開示もなされていない。

或いはUIがFlashによってかき乱されると云われるが、それこそ出て来たアプリをチェックすればよいだけの話であって。そもそも、UIは現状でもいかようにでも改変可能だ。それをみんながやらないのは標準で提供されるUIが良く出来ているからと、単に変更するのが面倒だからだ。

一方的にFlashを搭載しない理由はこれだ!と掲げているが、品質に問題があるのはFlashのほうではなくでAppleのほうなのではないか。それをFlashを槍玉に上げることでカウンターあてたような雰囲気を醸し出しているに過ぎないのではないか。

しかし、今回のAppleの文章、読むにつけ内容の無い文章だ。この日記書くに至るまで延べで何時間も悩まされたこと自体が、Jobsマジックにかかったということなのだろうか。


「電子書籍の衝撃」の衝撃

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というわけで日記のタイトルは完全にダジャレなわけだが、佐々木俊尚「電子書籍の衝撃」は面白かった。この本、もちろん電子書籍としてディスカヴァーから発売されていて、野村はiPod Touchで読破した。皆様にもオススメしようと思ったら、110円キャンペーンが終わってしまっていた。がびーん。

さてさて、この本を読んで色々と考えたことをツラツラ書いてみる。

良く云われる「なぜ紙の本を収集するのか」という問題。野村はマンガで本棚が埋まっているが、マンガは画集などと同様に紙面一枚一枚、右か左かも含めて全体を読むものなので、今のところ電子書籍には向かないから置いておくとして。また、図版が重要な書籍も同様だ。雑誌もここに含まれると思っていて、写真や図版が大きくて奇麗だから読みやすいという点が非常に重要と考えている。文庫サイズの雑誌は誰も読まない。なのでこれも横に置いておいて。

野村は電車で読んだりすることを考えて、小説はなるべく文庫で買うようにしている。可搬性を重視しているわけだ。一方でどうしても一刻も早く新刊で読みたい作品はハードカバーで買う。つまり、作品の配布形態が複数あることに対して、違和感は既に感じていない。ハードカバー→新書サイズ→文庫サイズと来て、電子書籍サイズになっただけだ。後は紙で持つ価値ということになる。

欲しい作品はハードカバーでも良いから買おう、と考える。ハードカバーか文庫か、そこには値段の問題もあるが大きさや形の問題もある。収納するにしても文庫の方が形が揃っていて楽チンなのだから、何かにつけて文庫の方がユーザーにとってメリットが大きい。なのにハードカバーを買うという行為は、その出版物の内容に加えて「付加的な価値」に対して魅力を感じているからに他ならない。発売されるタイミングもそうだが、例えば装丁や紙そのものに「付加価値」を感じているから、その分の金額を上乗せしても良いと思っているということになるだろうか。「紙の質感が好き」とか「紙はメモできる、付箋を貼れる」といった「価値」もありえるだろう。

あるいは作家や作品に対する敬愛を示すためかもしれない。好きな作家、好きな作品だから金額以上に支払いたいと思う気持ちだ。ガンダムオタクがガンダムと聞くとなんでも買い揃えてしまう行為、自虐的に「寄付」とか「お布施」とか呼んでいるその行為は、既に作品に対してではなく付加価値に対して値段を支払っていると考えられないだろうか。

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「作品の値段」+「付加価値の値段」=「本の値段」とした場合に、「付加価値の値段」をディスカウントした状態が新書→文庫、そして電子書籍となると考えれば、既存の紙を使った出版形態と電子書籍という出版形態は共存できるのではないか。作品そのものの値段で入手できる電子書籍が書籍のベーシックな配布スタイルになって、ハードカバーは所有者にプレミア感を与えてくれる嗜好品として存在する。とりみき&田北鑑生の名作SFギャグマンガ「ダイホンヤ」のような世界もあながち冗談ではない。

本を嗜好品として考えた場合、単にフォーマットが揃っているだけの新書や文庫は残念ながら価値が薄い。横に並べたときの美しさとかコンプリート感を得られるラインナップ(例えば作家の全集とか。あぁラヴクラフト全集揃えてねぇや)があれば俄然、嗜好品として買い揃える価値が湧いてくる。だが闇雲に刷られているだけの新書や文庫であるならば、結局それは値段以上の付加価値を提供してくれないので電子書籍のほうがいい。

後は単純に「文字の読みやすさ」という問題だが、これは経験や体質に依るところも大きいと考える。だが、「電子書籍の衝撃」の中で著者が述べているように、既にブログなどをデジタルの状態で読み慣れている世代にとっては、あまり重要な問題ではないのかもしれない。

日本では出版業界の障壁が高くてなかなか普及しない電子書籍だが、野村は潔く肯定派に回ることにした。だが紙の本が持つプレミア感も好きだ。多分これからは両方を見比べて、その時々でどちらを選択するか決めていくことになるだろう。