2010

「涼宮ハルヒの消失」を観た

オタクども(野村自身を含む)で満員の映画館で「涼宮ハルヒの消失」を観た。うん、これでよい。ファンとして納得できる出来であった。

さて、ファンではない人が観たとき、つまり映画としてこの作品はどうだろうか。よく云われるように、この作品のように「TVシリーズ(または原作)を観ている人前提」の作品であることは、映画単体としてはやはりマイナスである。見た目が所謂流行もののアニメなので、そもそもその点にも嫌悪感を抱く人が多かろう。

だが、SFとしてはやはり良く出来ていると思う。平行世界(if)&タイムトラベルというおいしい題材が「ハルヒ」シリーズの骨格で、連続した物語として考えると、今回映画化された「消失」まで含めると非常にSFファン的に盛り上がる作品である。正直云うとアニメファン向けのチャラチャラした演出とかさえ要らねーと思えるくらいだ(ただし、その場合はこんなに売れなかったとは思うが)。

ストーリーそれ自体が作品の「オチ」なのであまり書きたくないが、もう一つの世界でのちょっとしたズレとか、タイムトラベルものの禁忌とか、繰り返される何かとか、そういうところがいちいち面白い。

ところで、全然関係ないが、この映画を観に来ている人たちはやはり普通の映画とは層が違うようだ。予告編が始まっても興味が全く無いようで、ペチャクチャしゃべり続けていた。そういうものなんだと云われるとそれまでなんだが、なんだかなぁ。やっぱりこの作品が一般のSFファンに届くことはないのかも知れない。


森美術館に行ってきた

森美術館に「医学と芸術展」を観に行った。面白かった。

さて、展示の話はここまでにして。

どうしたものだろう、あの六本木ヒルズという成金趣味丸出しの建物は。昔からあの建物は好きになれなかったが、今日確信した。あの建物は酷い。コンセプトが酷い。どうだすごいだろう、と上から目線で押し付けがましい印象が酷い。

サインが分かりづらい。それを補うためか随所に係員を配置して「あっち行ってくれ」「こっち行ってくれ」と人を指図する。しかもその係員も、ずーっと同じことを指図し続けているから、発話する文章が完全にゲシュタルト崩壊している。言葉に言霊が無いから、全く耳に入ってこない。ただうるさい係員が、通せんぼしてくるだけ。挙げ句ただでさえ分かりづらいサインを隠すように立っている。

サービス過剰とかいうレベルじゃない。サービスを知らないんだ。サービスということを真剣に考えていないから、こんなトチ狂った案内方法になるんだ。

大体、美術館が地上53階というのはどういうことだ。しかも展望台とセット売りときた。高所恐怖症の野村にとってこんな嫌がらせは他に無い。美術館を観に行く人は展望台も観るだろう、と。どっちも同じ価値だろうと。そういう安易な発想が透けて見えているように感じた。

森美術館は展示の内容だけでいったら必見、行くとなったら最低の美術館だ。


文化庁メディア芸術祭に行ってきた

文化庁メディア芸術祭に行ってきた。去年は会場に入るまでに30分かかったので、今年は昼前に観に行った。

会場内は去年よりもカオス度が減って巡回しやすかった反面、野村としてはあの「ごった煮」な雰囲気が好きだったのもあり、会場全体から感じる魅力は若干落ちたようにも感じた。まぁこの辺は好き好みがあるだろうからこれ以上考えないとしても、比較的「既に成功している」と思われるメディア作品が多く展示されていることについては少し考えたい。

アニメ・マンガ・ゲームをメディアとして捉えて評価したいという点は大いに賛成なのだが、会場の1/3以上を占める必要性というものを感じなかった。同様にインターネットで閲覧することが目的の作品についても、あんなにスペースを確保する必要はあったのだろうか(要らないという意味ではなくて)。どちらも既に一般消費者へ向けてのチャネルを確立しているから、わざわざ会場で観ることに違和感を感じた。

客寄せパンダとしての必要性は理解できるが、なんというか、「そればっかり」という印象。

特にマンガについては、いくつかの作品はただの複製原稿の展示だったりして、そもそも展示自体に疑問を持った。なら要らねー、と思った(作品の評価とは全く別であることを強調しておく。自分の好きな作品の展示が複製原稿だったのには正直がっかりした)。

会場で盛り上がったのは、インタスタレーション作品。チャンスを逃すと実物を観ることがなかなか難しいインスタレーション作品が、無料でいっぺんに観られるなんて最高だ。後は映像作品なのだが、これはいつも時間の制約から全部を観ることができなくて歯がゆい。こればっかりはどうしようもない。

というわけで、結論としては「観るしかない」と。既に来年が楽しみ。


「不要なもの」としてのサービス

インターネット上では新しいアイディア、仕組みを持ったサービスが次々と生まれている。発表されれば「革新的だ」「今までに無かった」といった煽りが使われ、生き残れなかったサービスは「新しすぎた」(または「劣化コピーだった」)「用途が無かった」と云われる。

サービスは道具だから、使い込んでいくことに意味が生まれていくもののほうが多い。だが、あまりに「新しい」サービスが日々登場するためか、そのサービスを自分のライフスタイルに組み入れることは非常に難しくなってきている。きっと、今発表されているサービスの多くは現代社会においてすぐに必要とされない、「不要なもの」だということだろう。

様々なサービスを使いこなしている方々のうちの何割かは、大変表現が悪くて申し訳ないが、実は「不要なもの」のいくつかを上手にライフスタイルに取り込んでいる方々だと云える。それが現代社会の「ゆとり」であり、文化の発展に大きく寄与している部分であることは歴史が証明しているから、そこになんら問題などはない。

もしもサービスとして生き残るために、ユーザーに日常的に活用してもらえるサービスであろうとするならば、ユーザーのライフスタイルに入り込む必要がある。ライフスタイルに変革をもたらすか、あるいは生活上でそれまで空位だった部分に入り込むか、だ。前者にせよ後者にせよ、「不要なもの」を習慣化させるためにユーザーのライフスタイルに切り込んでいくのだから、ハードルは高い。前述の「不要なもの」をうまくライフスタイルに取り込んでいる人々にしたって、一日は24時間しかないので空きスペースは僅かだ。

あるいは、サービスとして「一定の成果」を得るのが目的であれば、ユーザーに日常的に活用してもらおうと思わないほうがよいのではなかろうか。「不要なもの」であるサービスならば、飽きられて使われなくなったとしても問題は無いのだから、いっそうまく時代をすり抜けるように立ち振る舞うことで「印象」として記憶に留まってくれたほうがいいのでは無かろうか。「印象」はライフスタイルを壊さないし、時として実際の現象よりも美化されてくれることもある。

サービスは終わり方が難しい。立ち上げるときに「終わる」ことを考えがたい。だが、多くのサービスはいつしか終わってしまっている。作り手の言い訳として「時代に合わなかった」という弁は仕方が無いことだとして、果たして「不要なもの」を少しでもライフスタイルに取り込んでもらえるような工夫をしたのかを反省する必要もあるだろう。いっそ負け犬の遠吠えならば「すり抜けが目的でした」でも構わないんじゃなかろうか。ただ、格好よく立ち振る舞わなければ印象にも残らないということも忘れてはならない。印象にも残らなければ本当にダメだったということになってしまう。


日記書かなくなった

Twitterのせいですっかり日記を書かなくなった。長文を書く練習を怠るのはよくないことだから、なるべく日記は書きたい。だが、日常の些末な出来事を書き留めるのはTwitterのほうが早い。

日記を書くときは、自分の意見をまとめ、論理の構造を(これでも一応)考える。文章と馴れ合う時間とでも云おうか、思考を言葉でこねくり回しているこの時間こそが日記の本懐であろう。内的なもの、思考や感情と云ったものをアウトプットするときにそういった「タメ」が一瞬ある点がTwitterと異なるのではなかろうか。

否、Twitterでもそういう「タメ」を作ればいいのだろうが、そういった発想をさせない空気感があのサービスにはある。TimeLine(TL)と呼ばれる、時間軸の持つパワーが、使う人を高揚させているという印象がある。

古い時代の映画や小説の描写ではよく、一日の終わりなどに日記のための時間を設けている人物が描かれる。実際のところ、どうなんだろう。ちょっと意識的にそういう時間をどこかに作ってみたいと思う。思考をまとめる「タメ」の瞬間。