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光の人

第一話

『三日目の国語と現社の答案は、白紙で出した。
空は、今日も高かった──』

──屋上

 永井は、今日も授業をさぼっている。小春日和の日向は彼の好きな場所だ。特に授業中の屋上は、考え事をするのに最適だった。ラジオをかけて、雲を眺めて、かねてよりの計画を思い巡らす。永井はこの学校での生活の、折り返し点に立っていることを実感していた。
 秋になっても、いつも通りの吹き下ろしが、永井の前髪を忙しなく揺らす。西から東、風も雲もこの街では律儀である。短かった夏は終わった。それは永井にとって、一つの合図だった。
 ラジオから、『二十二才の別れ』が流れ出した頃、永井はそこに立っている少女に気づいた。
「永井君、今日もサボリなんだ」
ショートカットが幼く見せる。隣のクラスの谷川だ。
「怒った?」
ふざけるように言って、谷川は笑った。永井は自分の表情が、彼女にあらぬ誤解を招いているのに気づいたが、確かに良い気分という訳でもないので聞き過ごした。
「いっつも独りで怒っているね」
と、彼女はまた笑って見せた。
 永井がぶっきらぼうなのは今更のことで、それがこのところの永井の素行と重ねてみると、確かにいつも怒っているように見える。分かっている、だが、永井は否定する気にならなかった。それはそれで、心地良かったからだ。
「珍しいね、谷川さんがサボリだなんて」
「サボリじゃないよ!この時間、自習になったんだ」
「でも、自習しているようには見えないよ」
永井は立ち上がって、手すりに肘を乗せて街を見た。この学校は高台にあって、北の方角を見れば、林の隙間から市街地をうかがえる。陽を浴びて、露出オーバーの写真を貼り付けたような街があった。
「ねえねえ」
と、谷川が呼ぶ。
「今度の脚本、私が書いたんだ。見に来てよ」
 まだ秋と呼ぶにはいささか気が早かったようだ。森の緑は眩しいし、大会もこれからだったのだ。大会とは演劇部が毎年参加している、高校演劇発表大会のことだ。
「そっか、そんな季節なんだ」
とだけ、永井は答えた。

──アリーナ(講堂)

 午後四時三十分。にわかにアリーナは騒がしくなった。演劇部こと劇団「銀杏」の稽古が始まる。森山はつなぎに着がえてステージ袖にいた。これから、大道具を何点かアリーナ横の駐輪場にまで出して、大工仕事に精を出すのだ。
 彼は、大道具の他に何の肩書も持たない。だが、他の団員から信頼の厚い男であった。そして彼は、この劇団「銀杏」の黎明期からのメンバーであった。
 この劇団を支えた初期の主要メンバーは、今年もほぼ残った。演出の、「お母さん」こと本宮。森山。人使いの巧さと口の不器用さが可愛いと、女子によく言われる部長の伊藤。だが、大事な一人がこの中にはいない。
 去年の劇団「銀杏」作品、『それは幻』を書いた男、永井である。
 彼が辞めると言った日、森山は伊藤とこんな話をした。この劇団の存亡は、あいつにかかっていると思っていた、そんなみっともない話だ。
 伊藤と永井は、年も学年も違ったが、二人ははた目に見ても良いコンビだった。それだけに、伊藤の動揺は隠しきれるものでもなかった。殊に、彼は永井が辞めた理由について、団員の他の誰にも打ち明けられない何かを知っているらしかった。森山はそれを問いつめたりはしなかった。ただ、それは見えない何かを産み、やがて劇団を覆うだろうという、漠然とした不安はあった。そしてそれは、伊藤も感じていた筈だった。
 どんな団体にせよ、一度ならず解体の危機は訪れる。サークルから部に昇格した劇団「銀杏」ではあったが、伊藤や森山が恐れていたものは徐々に形を作りだしていた。少なくとも森山は、そう感じていた。
 にわかにざわついた空気を、森山は感じた。アリーナの後ろ、出入り口に一人の男の姿が見える。
「永井君だぁ!」
女子団員の何人かが声を揚げた。全員の動きが止まった。
 申し訳なさそうな笑顔を見せて、永井は笑った。団員達は思わぬ客人に駆け寄っていった。口々に永井を歓迎する声があった。それでなくても、永井は授業にも出ていないらしいから、同級生にとっても客人同様のようだ。久しぶりの、悪く言えば浮き足立つような、楽しいムードが劇団に帰ってきたようだ。
 伊藤は少し離れたところから、年上らしい落ち着いた態度で永井を見ている。永井も当然、伊藤に気づいていたようだ。
「ねえ、見ていってよ、丁度練習に入るところなんだ」
誰かが言った。永井は礼儀良く微笑んで見せた。らしくないな、と森山は苦笑した。伊藤は手を叩いて団員を急かしていた。

──劇「迷宮夢」

 中央に、向かい合う椅子(列車の座席)。上手側に主人公C子が座っている。下手から歩いてくる少女にスポット。中央に立つ。照明が二人を照らす。
少女「ここ、座ってもいい?」
C子「(少し戸惑って)ええ、どうぞ」
少女「窓、開けてもいい?」
C子「ええ、構いませんよ」
 少女、答えを待たずに窓を開ける。帽子を飛ばされないようにする仕草。窓から顔を出して笑う。
少女「風はいいな。風は気楽で」
C子「でも、風は、穏やかな日ばかりじゃないのよ」

──アリーナ

 キャットウォークの上から、谷川は自分の書いた劇を見ていた。だがそれはわずかに十秒ほどの出来事だった。すぐに目をアリーナ中に走らせて、永井の姿を見つけると小躍りをした。
 永井はアリーナのほぼ中央、伊藤部長や演出の本宮の座っている辺りよりも後ろに、遠慮がちに座っていた。あぐらをかいて、じっと劇を見てくれている。正直に思えば、本当に来てくれるとは思わなかった、でも、来てくれないとも考えなかった。儲けた感じはしていた。どきどきは間違いない感情の表れだ。
 少女がC子にあめ玉を渡す件の辺りで、谷川は急いで二階席からエントランスホールに抜け出た。階段を急ぎ降りながら、今ちょうど少女が身の上話を打ち明けるシーンだから、それが終わった辺りで声をかけよう、などと考えたりした。アリーナの一階に着いて重い扉を開けると、暗闇にステージがくっきりと浮かんで見える。その手前にオブジェのように人々がうずくまっていた。その一つを目指して、ゆっくりと谷川は進んだ。
 永井はじっとステージを見ている。それは、谷川が一番愛している眼差しであった。寡黙で人付き合いの下手な永井だから、じっと見つめる眼差しが美しい。谷川は、永井がいたからこの劇団に加わったのだと思う。その頃は、自分でもよく分からないものに惹かれていた。
「どう?」
と、谷川は唐突に声をかけた。驚いて振り向く永井は、
「ああ」
と声をこぼして、
「いいよ、すごく」
と続けた。
「本当?」
谷川は永井の顔を覗き込んで笑った。
「うん、雰囲気が……」
と永井が言ったところで、誰かが谷川を呼んだ。
 谷川を呼んだのは本宮さんと、役者の何人かだった。ステージの上で輪を作っている。谷川は、はいはいと返事をしながら、ステージに向かった。
 だから、永井の表情を読んではいなかった。

──部室

 アリーナにはいくつかの部屋がある。その一つが劇団「銀杏」に割り当てられていた。六畳程度の部屋には会議用の大きなテーブルが二つ並べてある。その脇にロッカー、テーブルの上にはラジカセやら脚本やら資料やら衣装やら小道具やら、壁には何故か日本刀のレプリカや仮装で使った河童のぬいぐるみが掛けられ、窓辺にはホワイトボードが置かれて、実に乱雑である。
 永井は知らない世界を覗かせてもらっている、そんな感じを受けた。この部屋に劇団が入ったとき、既に彼は退団していた。
 ラジカセにも、ホワイトボードにも見覚えはあった。その辺りだけ昔のままの風景に思える。つい、手を伸ばして昔の風景に触れてみたりした。
「久しぶりだな」
と声がしたので振り返ると、扉の前には伊藤がいた。伊藤は一学年上だが、年は二つ離れていて、しかも「先輩」と呼ばれることをひどく嫌っている。特に永井は伊藤の人間性にも信頼を寄せて、敬意を表す代わりに彼を呼び捨てにしていた。
「ひどいもんだろ?」
と、伊藤は笑った。永井には答えられなかった。
「お前が抜けてから、うちはぼろぼろだよ」
「ぼろぼろ?」
目を合わせずに永井は言った。敷き詰めるように広がるメモ用紙を、一枚一枚めくりながら、
「とてもそうは見えなかったよ」
と答えた。あまり感情は入らなかった。
「外から見たら、そうかもな」
と、伊藤は仕方なさそうに笑った。
「空気が違っているよ、お前がいた頃とは」
 メモの下に隠れていた、団員名簿を永井は見つけた。連絡網を兼ねた樹形図のあちこちにバツが書かれている。落葉樹だ、と永井は思った。もう、秋が来るのだ。
「霧の中を進む船だって、よく言うだろ。でも、灯台は無いんだ。導くものが無けりゃ、何もできないんだよ」
「あの脚本は?」
と、永井は伊藤を制して聞いた。伊藤は、口を二、三度動かそうとした。それだけで、十分だった。
「戻ってこいよ」
「残念だけど、その気は無いよ」
用意された言葉を交わして、永井は伊藤の肩をかすめて、扉を開けた。
 アリーナでは劇団の練習が続いていた。が、役者はステージの上にはいない。スポットや音響が、だらしなく入ったり消えたりを繰り返している。
 広いアリーナの真ん中で、谷川がうつむき立っている。
 右手に握られた脚本が形を変えてゆくのを、永井は遠くからじっと眺めていた。

──谷川芽群美の部屋

 ベッドに大の字に転がって、わあー、と声を揚げてみた。何も変わらない。谷川は舌打ちした。
 部屋の窓からは、月夜が見える。満月だった。谷川は体を起こした。
「お月さん、
 お月さん、
 私の心を照らしておくれ」
と、歌うように呟いた。窓に頬を付けて、ひんやりとした夜の温度を感じた。
「暗い夜道を照らしておくれ、
 私を……」
 また、わあー、と声を揚げて、谷川はベッドに倒れ込んだ。月に背を向けるように寝返りを打って、
「月は、自分じゃ光れないんだ」
と呟いて、目を閉じた。

──図書室

 永井は、このところよく、図書室に出入りしている。二階の山側に並べられた、舞台関係の書棚に一番近い机である。
 初めてここで読んだ本は、寺山修司の書いた詩集だった。それまで、寺山修司と言えば「あしたのジョー」の主題歌しか知らなかった永井が、何を思ったのか演劇を目指した頃、ここで読んだのだ。
 彼の手元に置かれているのは、ジャズ・プレイヤーばかりを撮ったある写真集。この図書室のBGMとはいささか雰囲気を異にしてはいるが、彼はそれを一心に眺めた。
 まだ、授業中である。しかも午前だ。だから、永井は自分だけの時間をここで過ごすことができた。彼がここにいることを知っている人は、ほとんどいない。
 永井は、人の声を聞いた。ぽつり、ぽつりと雨だれのような声だ。女性の声だ。
 ふと目を見やった。机は、向かい合わせの対になったものが窓に沿って並んでいる。その反対側の端に、少しくたびれた黒いディバッグが置いてあるのが見えた。声は、そこから漏れ聞こえてくる。
 谷川の声だ。
「月は、独りでは光れないんだ……、月は……」
二、三度同じ言葉が繰り返されたと思うと、くしゃりと紙を丸める音が続いた。どうやら、イメージがまとまらなかったらしい。大きな溜息が聞こえた。
 永井はそっと、そこを離れた。

──3−B教室

 森山の席は後ろの扉に近かったので、廊下からこちらをうかがっている人影にすぐに気づいた。
「伊藤じゃないか!」
と驚かすように声をかけてやった。伊藤は一学年上なので、顔を出し辛かったのだろう、それを察してだった。たちまち、やはり劇団員の泉と林原も森山のところへ集まってきた。
 だが、伊藤が気に掛けていた人物の姿は無かった。
「伸次、谷川は来てるか?」
伊藤は、顔を見回しながら聞いた。森山は即答した。
「サボリだろ?」
「マジかい?」
「あいつ、ここんとこ、授業に出てないよ」
「ねえ部長」
と、横から林原が割り込んできた。
「谷川さんに伝えてくれた?」
「だから、それをさ、言いに来たんだけど」
「やっぱ、脚本を替えるんだ」
「嘘!」
昨日は森山は、駐輪場でずっとパネルを作っていたので、脚本を差し替える話が持ち上がったのを知らなかった。森山は、甘いマスクに似合わぬ素っ頓狂な声を揚げた。
「決まったんじゃないよ、昨日の帰りにそんな話が出て、そんなら俺が差し替え案を提案する、ってことにしたんだ」
「仕方ないよね」
と林原が言った。
「オリジナルはね、やっぱムズいよね」
「やり辛かったよね」
 伊藤の表情が堅くなるのを感じた森山は、二人を制しようとした。が、林原の口は動き出すと止まらない。
「結局、言いたいこともよく分かんなかったし、時間がもっとあれば良かったんだけど、書き直すっていうのもどうなのかなあ」
「こんな時に永井君がいてくれたらね……」
 泉は、よく考えないで喋る子で、口数は少ないがきつい印象がある。今の一言のように。森山は、密かな溜息に振り返った。
 伊藤が去っていく。森山には、彼の無念さが分かりかけていた。
 伊藤は前に、永井が辞めてしばらくした頃に、森山に漏らしていたことがある。永井は良き友であり、俺は自分で勝手にライバルだとも思っている、今だってそうだ、と。

──校舎の裏山

 昼休みになったからといって、のこのこと教室には戻れない、と谷川は悩んだ。思い付くままにぶらぶらと歩くと、校舎をぐるりと回って、裏山に出ていた。
 そこにはいつも永井がいる。谷川はそれを知っていた。丁度デッサン室の裏に当たるので誰にも見つかることはない。彼は一本の木の懐に座り、工事中の専門棟とその頭上の空を眺めているようだった。でも、本当のところは知らない。
 彼は何故、授業に出なくなったのだろう、それも知らない。いつも何を見ているのか、知らない。何故、劇団を辞めたのか知らない。何故、劇団に入ったのかも知らない。今日こそは、今日こそはと思って聞けなかったことを、今日なら言えるような気がした。谷川は、ずっと踏み出せずにいた一歩を踏み出した。
「こんにちは」
 永井は振り返って、谷川の顔を見るとにこりと笑ってまた空を仰いだ。
「いっつも、日向ぼっこしてるね」
谷川は返事を待った。
 風の強さは秋になっていた。北から吹き付けて、少し体を震わせた。かさかさと木々が葉を触れ合わせている。永井が少しも動かないので、谷川はすぐ隣に座った。
「ねえ」
と、顔を覗いた。目と眉だけで永井は答えてみせた。
「何しに学校に来てるの?」
「教えられません」
彼らしい返答が返ってきた。のらりくらりとはぐらかすのは、彼の十八番だった。
「ねえ」
と、谷川は笑いかけてみた。つられて永井も笑った。
「どうして演劇部を辞めたの?」
 永井は工事現場の白いコンクリートブロックを見つめていて、質問に答えようとしない。始業のチャイムが辺りに響いたとき、再び口を開いた。
「あ、ほら、授業始まったよ谷川さん」
「うやむやにしようったって、そうはいかない」
「サボってばっかでいいの?」
「あんたに言われたくはない!」
 くすりと二人は笑った。
「悪い子だ」
と、意地悪そうに永井が言った。

──喫茶「フェルマータ」

 学校からしばらくのところに、喫茶「フェルマータ」はある。こぢんまりとした店の、チェンバロの奥のテーブルに二人は座った。永井はアメリカンを注文した。白い壁に掛けてあるポストモダンの頃のポスターを眺めてから、永井は谷川の方を見た。
 谷川はこういう雰囲気に慣れていないらしく、こちこちになっている。照れくさそうに笑ってみせるので、永井も笑い返した。
 だが、会話は、思った以上に弾まなかった。
 ティーカップを丁寧に置き直して、谷川は結論を口にした。
「今頃、別の話にするってことになっていると思う」
口にすると、やはり少し寂しいらしい。谷川はコップの水面を揺らしながら、鼻を鳴らした。
「悔しい?」
と、永井は聞いた。じっと、コーヒーを眺めてからぐいと飲んだ。
「いや」
と谷川は即答したが、
「いや」
と訂正した。
「ちょっとね。今回のは、自信、あったから」
 谷川は、もう一度カップを持ち上げて、両手で包んだ。湯気を浴びながら、壁に走っている一本のヒビを縦に辿りだした。
「なんでかな」
 震える声の谷川を見据えたまま、永井はカップを置いた。
「なんでかな、違うんだろうね。私のは、さ」
谷川は、言葉の一つ一つを丁寧に並べた。
「才能、無いのかなって思ったり、まだやれるかなって、それも勘違いだったり……」
 永井はしばらく、何も言わなかった。それも、彼なりの一つの答え方だった。だが、顔を見上げた谷川は、永井に言葉を求めるような目をしていた。
 だから、永井は、口を開いた。
 空は夕方の色になっていく。夏の終わりの雲に、今日は色が付かなかった。

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