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光の人

第二話

『この人は、何を言っているんだ?
この人は、何を怒っているんだ?』

——部室

 雨になると聞いていたが、空からは一向に何も落ちてきやしない。森山は部室の小さな窓から、空を眺めていた。どんよりとした、気味の悪い空だ。
 部室にはあと五人ほどいるが、皆一様に疲れた様子であった。金曜のあの騒ぎの後では仕方もあるまい。森山も、少々気怠さを双肩に抱えていた。
 先週の金曜、脚本の変更を伊藤部長が提案した後、三十分も話し合いは空回りした。誰も反対はしなかった、だが、誰も賛成をしなかった。伊藤が選んだ新しい脚本は、ニューヨーク辺りで有名な作家の寸劇の一つであったのだが、これはこれで悪くはないのだが、誰も賛成はしなかった。
 劇団「銀杏」は、昨年の大会で審査員特別賞をいただいた。永井の脚本による『それは幻』である。五十年の時を越えて出会った二人の少女の友情を描いた話であるが、その中心にあったのは、等身大の自分達そのものだった。永井の脚本は、他ならぬ自分達自身へのメッセージであった。
 等身大の物語、それはこの劇団の不文律となった。この劇団に惚れて入団してくれた、全ての団員がそう感じていた筈だ。だから今回も必然に、脚本は自分達から募ることになった。稚拙でもいい、自分達の言葉で舞台に上がろう、と言ったのは他ならぬ伊藤自身だった。
 谷川の脚本を責める権利は誰にも無かった。あったとしても、ではどんな助言ができたというのだ。谷川が書けなかったのではなく、誰にも永井の真似はできないのだと気づいて、皆が静まった後の数分は辛いものだった。そして、林原が口を開いた。
「永井君だったら……」
それを合図に、口々に団員達は言った。永井をもう一度、彼に頼めば、いやこの脚本の手直しだけでいいんだ、谷川の作品に手を加えてもらえれば、もしかしたら形にできるかも知れない……。
 金曜の会議は、そんな風にして思いも寄らぬ方向へと進んだ。伊藤もまさか、あそこで永井の名が出るとは思わなかったろう。
 今日はとりあえず、谷川を待たねばならない。彼女は今、会議室に呼ばれている。恐らくここ何日かの欠席についての質問か、期末試験で現代社会と国語の答案を白紙で出した件か、そんなところだろう。
「谷川さん、来たよ!」
部室の扉を開けて、泉が飛び込んできて叫んだ。程無くして、谷川本人も扉を開けた。
「どうしたの?」
と谷川は目をぱちくりさせた。部室にいる全員が、彼女をじっと見ている。
 伊藤はあいにく、まだ来ていない。一つ咳払いをすると、森山がおもむろに金曜の会議の結果について伝えた。
「えー!」
「えー、じゃない!」
「だって、あれはてっきり、もう駄目かと」
眉をひそめて言い訳がましい谷川に、横から他の団員が制するように言った。
「あれは、ほれ、やっぱ、うちらしさがあってさ」
「早い話、代わりの脚本はイモだったんだよ」
「待て待て、あれはあれでいい話だったぞ、でも、うちらしさが」
「あ、部長」
 伊藤は谷川のすぐ後ろに立っていた。谷川と頭一つ違うので、誰にでもすぐに分かった。
「部長!」
振り返って、谷川が泣きつくように言った。
「あの脚本は使わないって言ったじゃないですか」
「言ったよ」
伊藤は谷川の発言に耳を貸そうとはしない。森山の脇に置いてあった椅子を引き寄せて、どかりと腰を下ろした。
「でも、やることに決まった。決まったんだから、直してこい」
「そんな、無理しなくたって」
「無理?どうして?」
森山が、伊藤の代わりに言った。伊藤はこんな時に気の利いた台詞を言えない。森山をちらりと見やると、後を任せるようにそっぽを向いた。
「お情けなんかかけている余裕も無いんだ。あと一ヶ月無いんだぞ。あるもので精一杯やるだけさ。賭けだよ、賭け」
 森山はそれ以上何も喋らなかった。無論、伊藤も何も喋らなかった。谷川はしばらく突っ立っていたが、そっと振り返り、再び扉を開けて去った。
 しばらくして、団員の一人が溜息混じりに言った。
「何で、永井君にも頼むって……」
「まだ言わない」
伊藤が即答した。うなずきながら、繰り返し言った。
「まだ、いいんだ」
 この場にいる、誰もが気づいていた。伊藤は谷川に期待しているし、それ以上の好意を寄せていることを。だから、伊藤が何事も無かったように脚本を広げて、赤ペンを持つ姿がとても寂しかった。

——谷川芽群美の部屋

 机の上には、ノートが開いてあった。だが、それはこの何日かずっとそのままであったものだ。真っ白なページの上には、きちんとシャープも置かれてはいるのだが、芯が入っていない。ノートは書きかけのまま、シャープを持つどころか、谷川はずっと頬杖を突いていた。
 机の上の蛍光灯を眺めてみる。眩しい光、それはスポットライトのようだ。谷川は目を閉じた。
 あの日、額に滲む汗を拭ってスポットを動かしたあの日、谷川は記憶の淡い色を辿っていった。
 確かに見たんだ。
 でも、何を見たのか、思い出せない。

——3−B教室

 林原の席は一番後ろの、一番廊下側である。斜め前に座っている、森山の大きな背中をノートでつついた。だらしなく振り返る森山を、廊下から呼んでいるのは伊藤だった。
 林原には伊藤の用件が分かっていた。谷川は今日も欠席である。
「朝からか?」
伊藤は、扉の隙間から首だけ教室の中に入れて、聞いた。林原の横に座っている泉が、
「朝は見たんだよ、バスで」
と答えた。だが、教室には来ていない。
「彼女、反抗期かな」
と森山が言うと、林原は続けた。
「彼女、平松先生の課題、まだ出してないんだって」
「まるで、あれだね」
泉が言った。
「永井君みたい」
 林原も、森山も、何も答えなかった。谷川が永井をどう思っているのか、気づかないのは鈍感な泉くらいなのだ。誰にも知られないようにして、林原は奥歯を噛んだ。
 教室の前側の扉が開いて、A組の広田が入ってきた。林原達を見つけると、大きく両手で丸印を出した。
「永井君、いいってさ!」
「本当?」
永井はA組なので、広田が例の脚本の直しを頼んだのだ。
 筋は通らないのだが、やむを得ない、谷川にも引き続き作業を続けてもらって、永井から助言をもらう形にしよう、とこれは伊藤が昨日明らかにした計画だった。だが、肝心の谷川が捕まらなくては元も子も無い。
 大きな溜息とそれに続けて、
「非常事態、か」
と、伊藤が呟いた。そして太い眉毛をひそませたまま、目を閉じた。

——谷川芽群美の真実(一)

 学校までは来たんだ。でも、また、扉を開ける勇気が出ない。
 雨はすごい勢いになってきた。バケツをひっくり返すとか言うけれど、降ってくる言うよりは、空が落ちてくる感じだ。重たいし、息苦しくなってくる。中庭での雨宿りにも限度があるので、今日も諦めて、バス停に引き返した。
 平日昼間のこの路線は、病院に向かうおばあさんや、買い物へ行く主婦くらいしか利用しない。今日は雨降りなので、おばあさんはいない。だから、じっとワイパーを眺めていた。拭いても拭いても、滝のような雨を切ることはできないらしい。ごうという音は、バスの音ばかりでもないようだ。
 バスは十五分で地下鉄の駅に着いた。こんなに早く着いたんじゃ、バスを下りても雨は続いている。濡れるに任せて駅に向かった。
 この時間の地下鉄も静かだ。独特の、音を閉じこめた車内で、前髪から滴る水滴を見ていた。足元に水たまりを作るくらい、体中から雨水が垂れている。じっと、落ちる水滴を見ていた。
 誰かに、見つかれば良かったんだ。
 引き留めて、ちゃんとしなきゃ駄目じゃないか、って叱ってくれれば良かったんだ。気づいて欲しい、それだけなんだ。
 市街地に着くと、人が雪崩のように乗り込んでくる前に、下りた。そしてまず、時間を潰すことを考えた。と言っても、何も思い付くことなんか無いのだ、そんなこと分かりきっていた。
 仕方ないので、地下街をゆっくりと歩く。急ぎ足のおじさんに突き飛ばされそうになって、端の方を歩くことにした。看板を見て歩いた。鞄屋さん、パン屋さん、おもちゃ屋さん、本屋さん。何故かはよくは分からないが、とにかくその大きな本屋さんに入った。
 将来、何をやりたいのか、それが分からなかった。何となく手に取ってみた専門学校の案内書は五百ページもあって重たい。一応、デザイン関係のページを開いてみたけど、東京の学校ばかりでつまらなかった。
 何にでもなれそうだ、とも思った。それに、立派な仕事に就きたいとも思わない。終身雇用なんて関係無いし、飢えて死ぬのならそれも格好良いと思う。ホームレスになりたいと真剣に考えたこともある。お酒臭くないホームレスになって、凍死できたらどんなにか素晴らしいのかも知れない、と。
 隣に来た二人組の男の子は、浪人生らしい。次々に参考書を手に取って、過去問がどうのとか、ナントカ先生の解法がどうのとか言っているのが聞こえた。楽しそうだった。この時間の街は、浪人生のためにあるんだ。
 おいてけぼりにされたようだ。声をかけてくれるのは、英会話学校の案内のお姉さんだけ。当然、無視。時計を見たら、やっと一時になったばかりだ。外はまだ雨、それはそれはすごい雨。ちょっと濡れてみたら、悲劇のヒロインかな、と思って外を歩いたけれど、情けなくて悔しくって腹が立った。
 一年前にあった喫茶店は、何故かインポートショップになっている。またも、おいてけぼり。いつの間にかここは知らない街になっていて、知らない人が行き交うようになったんだ。
 劇団四季のポスターの前で、溜息を吐いてみた。
 演劇は新しい時代を迎えているらしい。でも、関係無いんだ。
 一年前の、あの馬鹿騒ぎを思い出した。
 その頃はまだ正式な劇団員ではなくて、助っ人として大会に参加したのだった。スポットを動かすという簡単で汗だくになる仕事だ。それでも、打ち上げの時には涙が出るほど嬉しかったのを覚えている。
 学校に帰ってきて、ジュースで宴会を開いた。ホワイトボードに賞状を張り付けて、皆でその周りをデコレートした。賞状には、永井君の名前が書かれてあった。「作・永井逍造」。その日、彼が楽しそうに笑っているのを見て、何故か誇らしくて、胸が切なくなったんだっけ。
 帰り道、学校の構内を通る小さな市道で、祭りの帰り道みたいにはしゃぎながら、るり子とこんな話をしていたっけ。
「私達にも、こんなすごいことができるんだ」
 そして、この劇団に入ることを決めたのだった。少しでも彼に近づけば、自分もすごいものになれるような気がしたんだ。
 でも、彼のようにはなれなかった。
 「好き」なだけではどうにもならないんだ。脚本も、恋愛も……。
 パスケースには、隠し撮りした永井君の写真。反対の手に握りしめていた脚本を、燃えるゴミのゴミ箱に投げ付けた。大きな音で吸い込まれていった。余りに大きな音で、辺りの人が振り返って見ている。素知らぬふりで、また歩き出した。
 そして、家に帰るまで何も考えることはできなかった。
 いつの間にか、雨は上がっていた。辺りはすっかり夜に包まれていて、玄関の灯りが眩しくて、戸を開けるのも気が引けた。重たそうに開けた。さっさと部屋に飛び込んで、籠もってしまいたかった。
 ぐしょぐしょの靴を脱いで、ただいまと呟いた。居間には灯りが灯っているが、そのガラスの扉に触れる気は無い。階段を上ろうと足を乗せたとき、居間から声がした。
「芽群美」
父の声だ。
「学校から電話があったぞ」
父の声は静かだった。
「なんて?」
振り返らず、ただ、そう聞いた。
「欠席届を提出して下さい、と言っている」
父は、冷静を装うのが下手で、しかも、こんな時にこれ以上何も言えない人だ。案の定、もう他には言わなかった。
 だから、何も答えずに階段を上った。
 部屋に入って、ディバッグを下ろして、部屋の灯りも点けずに、コンポの前に座った。スイッチを入れる。コンポの色とりどりのランプを頼りに、ローリングストーンズのCDをかけた。ヘッドホンをして、目を閉じると、まず永井君の顔が浮かんだ。
 永井君のように、なりたかった。
 まだ、彼が劇団にいた頃に聞いたことがある。あれは確か、満月の綺麗な帰り道、あの小さな市道に沿って、二人で帰った時のことだった。どうしたら脚本が書けるのか、そう尋ねたんだ。
「がむしゃらに書くだけさ」
と言うので、はぐらかされたかな、と思ったら、彼は真剣な目をしていた。
「言いたいことは、ただ一つ。その一つのために、たくさんのイメージが浮かぶんだ」
 大きな並樹の脇を歩いた。頭上には満天に星が溢れている。学校が建っているところは郊外なので、とても夜空が綺麗なのだ。
 歩きながら、永井君は胸の前で、手のひらを広げて内側に向けた。何かを包み込むようなポーズで、こう言った。
「大切なものはイメージ。できるだけ、リアルな世界を作るんだ」
 そうだ。
 あの時、光ったんだ。
 あの時、永井君の手の中で、確かに光ったんだ。
 永井君の手は握り合わされた。
「どうしたの?」
と聞かれて、慌てて、
「何でもないよ」
と答えたりした。
 あれが足りなかったんだ。永井君の手の中で光ったもの。あれが、足りないんだ。
 真っ暗な部屋の真ん中で、膝小僧を抱えて、ストーンズを聴いた。涙くらい出ないのかな、と呟いてみた。ヴォリュームを上げても、寂しさは拭えないんだ。だったら、せめて、涙くらい出たらいいのに……。

——廊下

 結局、谷川は四日も学校を休んだ。土日を挟んで、また月曜日がやってくると、谷川は、今日こそは授業に出よう、と校舎に入った。
 エントランスホールからエレベーターに乗って上の階に向かうと、一般教育棟に向かう長い廊下に出る。谷川は、そこで誰かに呼び止められた。振り返ると、泉が手を振りながら駆け寄ってくる。
「おはよ」
谷川は精一杯の笑顔で答えた。泉は間髪入れずに、
「ねえ、あれ見た?」
と聞いた。
「あれって?」
「芽群美の脚本だよ!永井君が手直ししたやつ!」
 谷川は止まった。
「やっぱ、すごいね、永井君って。あれならいけるよ!すごくいいよ!」
 泉は嬉しそうに、谷川の背中を叩いた。谷川は、何も答えられなかった。
 ずる休み明けの谷川の机に置かれてあったのは、自分の書いたはずの脚本だった。

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