『十二枚のメモと、百四十行の設定と、
真っ白なクライマックスを残して、
彼は去っていった—— 』
——谷川芽群美の部屋
机の上には三つ目の脚本を広げてある。永井が残してくれた言葉を噛みしめるように、傍らにはその手紙が置かれていた。
永井は、東京へ行った。学校側には、働きながら演劇をやるのだ、と言ったらしい。まるで六十年代そのままの生き方をするのだ、と笑ったという。でも本当のことは、誰も知らない。それを知っているのは伊藤だけで、だから見送りにも伊藤だけが行った。
谷川の脚本は完成間近だ。彼女自身にも不思議なくらい順調に、筆は進んでいた。
机の上には、永井の写真が立てかけられている。谷川は時折、それを眺めては深呼吸をして、また筆を進めた。こうやって彼女は、永井の残した書きかけの脚本を、ほぼ始めから手を加えていった。
主人公の台詞が少し変えられた。永井の脚本で描かれていた、主人公の青年期の迷いや悩みの構図に、谷川は主人公の甘えた姿の描写を付け加えた。
何もしようとしないで、時代のせいにして、将来を捕まえられない甘えん坊、そんな女の子が主人公だ。
——劇「迷宮夢」
C子が頭を抱えて嘆いている。Aが肩に手を乗せるがそれを払う。
C子「(すねたように)道はたくさんあると思っていたんだ。でもそれが繋がっているとは……、だってそうでしょう?大きく曲がっていったと思ったのに、大きく踏み外せると思ったのに、ここに戻ってきている。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる同じところを回っているのよ、この世界は迷路なのよ!」
A 「それは、おかしいんじゃないか?」
C子「何が?」
A 「時を取り戻すことはできないじゃないか」
C子「……(Aの顔を見上げる)」
A 「同じところに戻ってこれるものか、場所が同じでも、歴史が違うじゃないか。君の過ごしてきた五年間の分だけ、君は成長しているんだ。回り道なんか無い、足踏みだって無い。君は、君の追いかけているものに、間違いなく近づいているよ!」
——屋上
谷川は脚本をそこに置いて、財布を乗せて重石代わりにした。そこは、永井がいつも座っていたところだった。
少し雲が厚くなってきた。風は冷たく、谷川の頬を叩く。まつ毛の先が震えて、だが谷川はまっすぐ前を見据えていた。
谷川には、どうしてもしたかったことがあった。脚本が完成したら、真っ先にやりたかったことがあった。
「永井君、見に来てね」
谷川は壁に向かって言った。クリーム色の煉瓦の壁と、そのすぐ前に置いた、できたての脚本に向かって、
「絶対だよ」
と言った。
冷たい風に、音を立てるページをじっと見つめて、谷川は微笑みを浮かべた。目を閉じると、そこに彼がいる気がした。小さな声で、
「約束だよ」
と言ってみたが、風がそれをさらっていった。
屋上へと続く廊下から、じっと伊藤はそれを見ていた。かける言葉なんか無かったし、そんな勇気も無く、ただじっと、彼女を見ていた。
——バス
午後九時のバスは、ほぼ貸し切りの状態だ。後ろの座席を劇団「銀杏」の面々が占めて、部活の雰囲気をそのまま引きずっていた。
最初は何の話だったのだろう、誰かが無謀にも、ここから教育文化会館まで自転車で行くと言いだしたので、話は来週のリハーサルのことに変わった。
「助っ人が今年もいるかな」
と中沢が言った。何人かが指折り数えだした。
この道は人気の無い一本道で、人家も街灯もまばらだ。まるで星の間をくぐり抜けるように、バスは走った。やがて現れた陸橋の上から街を見下ろすと、空を飛んでいる気分になれる、谷川はずっと外を眺めて思った。
窓に映る車内の光景を見て、くすりと笑って、久しぶりに笑うことができた、と谷川はまた笑った。
「やだあ、芽群美、何にやけてんのよ」
と、泉が背中を叩いた。皆がどっと笑った。
『迷宮夢』の主人公の気持ちを味わった谷川だった。
——部室
伊藤は机の上にかからないよう顔を避けて、大きくくしゃみをした。鼻を押さえながら、
「うー、誰かが噂をしている」
と照れ隠しに呟くと、
「風邪だぁ」
と、横にいた林原が冷やかすように笑った。
ラジカセを囲んで、音響の二人はストップウォッチを睨んでいる。
「三秒」
「よっしゃ」
小さくガッツポーズを取って、二人は立ち上がった。CDとカセットを取り出すと、すぐに部屋を出ていった。
林原は溜めていた事務処理を終わらせた。OLよろしく首の骨を鳴らして、慣れた手付きで書類を束ねると、
「コピー取って来まーす!」
と、伊藤に敬礼をして立ち上がった。
林原が扉を開けると、丁度谷川がやってきた。
「こんちわ」
と言って、谷川が部室に入った。
伊藤はちらりと横目で確認すると、
「おう」
とだけ言って、作業を続けた。学校に提出する公休の届け出だ。別に急いで出すものでもないので、伊藤はゆっくり鉛筆を動かしている。
部室には、他に誰もいなかった。谷川はしばらく辺りを見回して、ラジカセの前に座った。
しばらく二人には会話は無かった。かちゃかちゃと、谷川がプレイヤーのふたを開けたり閉めたりする音ばかりが響く。伊藤は黙々と書類を書き続けているふりをしていた。時折そっと谷川の方を見やると、谷川の右手の人差し指と中指が、無機的に動いていた。
伊藤がまた書類に顔を向けたとき、その音はぴたりと止んだ。
「演劇部、辞めようと思う」
と切り出したのは谷川の方だった。
「知ってる」
と返した伊藤だが、鉛筆の先は先刻からぐるぐると同じところを回っていた。伊藤はその鉛筆の先を見つめていた。
また谷川は沈黙した。やがてプレイヤーのふたをぽんと閉める音がすると、
「じゃあ、辞めます」
と言って、谷川は顔を上げた。
「何を?」
と伊藤は返した。少しも顔を上げようとはしない。
「部活を辞めるのか?脚本を書くのを?演劇を?」
ゆっくりと伊藤は顔を上げた。今度は谷川が顔を背けた。口を尖らせて、
「そんなの、分からないよ」
と、谷川は言葉を詰まらせた。
谷川は、しばらく悩んでいたようだが、軽くうなずいてもう一度顔を上げると、今度は笑った。
「じゃあ、それが分かるまで、ここにいてもいいかな」
伊藤は微笑み返して、また書類に顔を向けた。
扉の外からは、囁き声が聞こえる。皆が耳を当てて、中の様子をうかがっているのがよく分かった。伊藤が左足から靴を脱いで、おもむろに扉にぶつけた。
——劇「迷宮夢」
再会を喜び合うAとB。C子は下手からじっとそれを見ている。
C子「間に合うかな。(客席に)あの二人みたいに、許し合えるのかな」
上手奥、セットの脇から少女が出てくる。
少女「C子さん、C子さん、鞄を開けてご覧なさい、鞄を開けて!」
C子、思い出して慌てて鞄を開ける。照明、消える。
音楽。
鞄の中から取り出した水晶が光っている。
──教育文化会館・小ホール
元宮は、この日のリハーサルに最後のシーンを選んだ。自暴自棄になりかけていた主人公が、自分の中にある大事なものに気づくシーン。そのクライマックスの仕掛けを決定するためだった。
客電が落とされて、ピンスポットが射し込む。役者がステージに現れると、谷川は身震いをした。誰も座っていない客席の真ん中で、深く腰掛けたまま肘掛けをぎゅっと押さえた。
たった二百人、二百人程度の小ホールに音楽が流れ出す。スポットが動く。台詞が聞こえる。汗が見える。大きな力となって、体を震わせる。
たった二十分のリハーサルは、もう終わってしまった。
——教育文化会館のロビー
元宮は、最初からものすごいはしゃぎようだった。去年も来たのだが、それでもどきどきするものだ、と言って笑っている。はしゃぎすぎだと言って、森山が脚本を丸めて頭を叩いた。
伊藤が集合をかけた。今日はここで解散ということになり、ありきたりの帰り道での注意事項をさらっと伝えた。
「やだ、雨だ!」
と誰かが言った。
外はまだ明るかった。細い雨が静かに音を立てている。皆は諦めたように、次々に外へと飛び出していった。
車が通る度に大きくなるノイズを聞きながら、伊藤はすぐには帰らなかった。
大きなロビーの片隅のベンチに、谷川は腰をかけていた。ずっと、外の雨を眺めている。伊藤はポカリスウェットを二缶買うと、ゆっくり谷川のそばに寄った。
伊藤は缶を差し出して言った。
「みんなと帰ったんじゃなかったのか?」
「部長」
薄暗いロビーには、もう誰も残っていなかった。雨音は流れる音楽のように、ロビーを包んでいる。伊藤は、谷川の隣に座った。
「いただきます」
と言って、谷川がプルトップを開ける、その指を伊藤はじっと見ていた。缶にあけがう、その唇と、首筋を見て、すぐに目をそらした。伊藤は、自分の手に持たれていた缶を開けて、大きく飲み込んだ。
「聞きたいことがあるんだけど」
と、ようやく伊藤から口を開いた。
「何です?」
「主人公の女の子は……」
谷川は両手で缶を包むように持っている。その手のひらを伊藤は見つめた。
「あれは君自身なのかな?」
谷川は天井を眺める仕草を見せた後、
「さあ」
と言って笑いかけた。
「誰かをモデルにしたつもりも無かったんだけど、確かにとても似てると思った」
じっと缶を見つめて、谷川は笑っている。
「ああこれが、私の言いたかったことだったんだって思ったよ。でも」
「でも」
「それはとても辛いこと」
「辛い?」
意外な言葉に、伊藤は首をひねった。谷川はもう一度顔を上げた。
「夢は必ず叶う、そんな話を書きたかったんだ、でも」
「でも」
「でも、私には書けないんだ」
谷川は目を閉じ、深く息を吸った。
「私は逃げていたから、そんなことを書く、資格が無いんだって気づいたの」
もう一度、伊藤は缶をぐいと持ち上げた。そして、谷川の方へ向き直った。
「そんなこと」
と、伊藤は言った。
「そんなこと、考えなくてもいいんじゃないか?皆、物語の中に夢を託す、それだけだよ」
「違うよ」
谷川は缶を飲み終えて、脇に置いた。
「それは、私の書きたかった物語じゃない」
遠くを見つめる目で、谷川は続けた。
「分かったんだ。夢は叶えるものじゃなくて、目指し続けるものだったんだよ。それに気づいたとき、物語の結末が浮かんだんだ」
谷川は笑った。伊藤は切なくなった。谷川は立ち上がってディバッグを背負った。
「ごちそうさま」
伊藤は座ったまま、動けなかった。
「部長」
と、谷川が呼んだ。
「私、演劇を辞めます」
「……そうか」
とだけ、伊藤は答えた。
「『好き』なだけじゃどうにもならないんですよ」
谷川はロビーの真ん中まで進むと、振り返って笑った。
「演劇も、恋愛も!」
そして、また歩き出した。
「じゃあ、さよなら!」
と、大きな声で答えた谷川は、まだ雨の降り続いている外に出ていった。雨の音が大きくなったかと思うと、もう姿は見えなくなっていた。
伊藤は、一人ロビーで溜息を吐いた。ふられたらしい、とそっと呟いた。
——谷川芽群美の真実(三)
雨は小降り。だったら、少し歩いてみてもいいね。
こんなことできるのも、今のうちだけだから。
大会まであと少し、明日も朝から練習がある。
でも、この雨は今しか降らないんだね。