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光の人

第三話

『答えは
 とっくに出ていたのかも知れない』

——屋上

 林原は元宮と共に、風が強く吹き付ける屋上を見回している。空はもう秋の色に染まっている。林原は髪が乱れるのを嫌って、前髪を押さえた。
「いないね」
元宮はうなずき、きびすを返した。
「今日も休みなのかな?」
「いよいよ、彼も怪しい人物だよね」
林原が大げさに眉毛をひねると、元宮は黙ってうなずいた。
 踵でコンクリートを蹴って、林原は小さく舌打ちをした。

——部室

 ロッカーの中を何気なく覗いていた谷川は、ぼろぼろのノートを一冊見つけた。メモや新聞の切り抜きがたくさん張られていて、厚さは元の二倍ほどにもなっている。これは何のノートだろう、手にとって谷川は椅子に腰掛けた。
 テーブルの端では、音響の三人ほどがラジカセを囲んでいた。その向かい側には大道具の人と美術の何人かが、背景をホリゾントにするかどうかを揉めている。谷川はそのどちらの輪にも入れずにいた。仕方がないので、隅の方で静かにしているのだ。
 ぼろぼろのノートの中には、文字と舞台図がぎっしり書かれてある。すぐに、去年の作品に関するものだと分かった。
 大きな音を立てて、扉が開いた。伊藤部長の登場だ。すぐに音響の三人と、美術の人達が立ち上がり、伊藤を囲んだ。
「曲順なんですけれど、一度合わせて」
「元宮と決めろ」
「第三場にセットを足す話ですけれど」
「予算はあるから、それでよし」
「林葉が病院に行って」
「今日は一幕の練習だから構わない」
「中沢先生が後で顔を出すからと」
「承知した」
 伊藤は聖徳太子よろしく、様々な質問に次々に答えてゆく。それは彼の才能だった。伊藤は根っからの指導者タイプで、伊達に年を取っていないことを感じさせる貫禄もあった。適度に威張って、それが嫌みにならない。劇団「銀杏」をまとめているのは、彼の人望である、谷川はそう感じていた。
 そっとノートをディバッグにしまって、谷川は立ち上がった。伊藤を囲む輪を避けて、谷川は独り部室から逃れた。

——アリーナ

 アリーナの騒がしさは独特で、妙に気分を高揚させてくれる時もある。だが、今日の谷川には、それは無かった。大きなアリーナの真ん中で、独りぼっちを感じた。
 谷川は、ステージの袖で作業を作業をしている、大道具の人達に声をかけてみることにした。薄暗い中に、工事現場にありそうな青いシーツを敷き詰めて、その上に角材やパネルが積まれている。森山達、大道具の面々が、書き込みだらけの脚本とドアの形をしたパネルを囲んで、輪を作っていた。
「ちわっす」
「ああ、丁度良かった」
 一学年下の中沢が言った。どうやら、会議をしていたようだ。森山が、残りの人達の発言を制して言った。
「谷川、空き地のシーンなんだけど」
「空き地のシーン……」
「背景をホリゾントにしようというアイディアが出てるんすよ」
ああ、先刻の話だな、谷川は思った。確かに、谷川の脚本の時から、空き地のシーンはあった。
「パネルを使う予定だったろ、手を抜きたい訳じゃないが」
「でも、栗の木はあった方がいいだろ?」
 谷川は悩んだ。谷川は悩んだふりをした。実は、何も考えてやしなかった。空き地のシーンを書いたのは彼女だが、彼女にはイメージらしいものは何も無かった。
「それは、そうとさ、コンビニに行って何か買ってこようと思ってるんだけど」
谷川は話を逸らしたかった。
「俺、『まるごとバナナ』」
森山が言った。順にコーラや、ファンタや、長崎蒸しパンといった声が揚がった。谷川は、うなずきうなずき、そそくさとその場を去った。

——駐輪場

 陽が射しているのに、風が冷たいせいで少し肌寒い。学校かたバス停まではまっすぐな一本道で、途中で川を渡っている。ずいぶん低いところを流れている川だが、そのせせらぎは橋の上まで、冷たく聞こえてくる。
 谷川は、また出鱈目な歌を口ずさんでいる。手にはコンビニの袋、余った手で橋の手すりをばんばんと叩いてリズムをとった。学校の周りは人通りも少ないので、こんなことをしながら歩いても恥ずかしくはない。
 駐輪場に、人影があった。伊藤が、駐輪場の柱にもたれかかって座っている。手には灰が長く繋がっている煙草があった。
「部長」
谷川は伊藤の元へ寄った。伊藤は天を仰いで、首を前後左右に回した。骨が鳴りそうだ。 「何をしてるんです?こんなところで」
「見りゃ分かるだろ?一服だよ。校内禁煙だから」
伊藤は煙草を持ち上げた。その拍子に長く繋がっていた灰がぼたりと落ちた。
「脚本は読んだか?」
 伊藤はコンクリートに煙草を擦り付けながら言った。谷川は少し、返答に戸惑った。
「読んだ方がいいぞ」
「あ、うん」
谷川は、返す言葉が無いので、その場を去った。

——平松教授の研究室

 エントランスホールに入ったところで、谷川は同級生の荻原に呼び止められた。平松先生が呼んでいることを教えられたのだが、用件は分かっていた。
 変形六畳と呼ぶしかない縦長の研究室に、肘掛けの木目が粋なソファーが向かい合わせて置いてある。ガラスのテーブルの上では、事務の女性が煎れてくれたお茶が湯気を立てている。壁中の美術書と、その反対壁には大きなポスターが、この部屋の主の趣味と専門を雄弁に語った。部屋の隅では、旧式のコンピューターが埃を被っていた。
 平松は、お茶をすする姿が様になってきた年齢の男だ。声の出し方も、渋いの一言に尽きる。諭すように、子供に話しかけるように、
「聞きたいことは、たくさんあるんだ」
と、平松は切り出した。向かいに座った谷川は、平松の方を見ようとはしない。行儀良く座ったままじっと、茶碗の中の水面を眺めている。
「例えば、授業に出ない理由」
平松の後ろ、大きな窓の向こうには秋らしい高い空が見える。風が木々を揺らす。
「課題を提出しない理由」
谷川はぼうっとしている。聞こえてはいる。反応するものか、と意地を張っているようにも見える。
「テストを白紙で出した理由、等々」
 平松は、お茶を大きく飲み込んだ。そしておもむろに、茶碗を手のひらで回した。
「でも、一番知りたいのは、今、君が何を考えているのか、なんだ」
谷川の視線が少しだけ動いた。
「誰かの真似なら止めろ」
 沈黙はしばらく続いた。
「はい」
と静かに答えた谷川は、やはり平松の顔を見ようとはしなかった。

——部室

 林原は大げさに騒いだ。最大のピンチだ、とまで言った。森山がいい加減でそれを制した。最大のピンチなんぞ、とっくの前から訪れている、まだ居座っているだけだ、と森山は続けた。元宮が、そんな下らないことは後で言い合うように、と森山の頭を平手打ちした。
「でも、どうして?」
と泉が聞いた。元宮は大きく首を振って、両手を上げて、知らないのジェスチャーをした。
「だって、もらったときにはもう、原稿用紙はバラバラだったから」
「無くしたの?」
「だったらこの部屋の中だよ、でも、部長だって目を通して、OK出したんだよ」
「部長が?」
森山は声を揚げた。
「気づかなかったのかな」
「一見、辻褄が合っているからか?」
団員の一人の問いに、森山と元宮は首を振った。林原が、森山の顔を覗いて、
「どういうこと?」
と問いただそうとした。
 その時、扉が開いて、谷川が入ってきた。緊迫している状況を感じなかったのか、
「私、もう帰るわ」
ととぼけた調子で、谷川はディバッグを取った。
「部長を見なかった?」
泉が聞いた。谷川は首を振った。
「先刻、駐輪場で一服してたけど、三十分も前だし、その後は知らない。じゃあね」
 谷川は、そそくさと部室を出ていった。林原が首をひねった。
「部長、煙草吸えたっけ?」
「いいや」
森山と元宮が即答した。

——谷川芽群美の真実(二)

ノートはやはり、永井君の書いたものだ。『それは幻』の設定や、資料の切り抜きが所狭しと張り付けてあった。
 そういえば、彼はこんなことを言っていたっけ。十の物語が浮かんだって、十が当たりって訳じゃない。ベストとは言わないけれど、努力はする、だから一行進めるのに、三日かかることもある。でも、目の前に物語が浮かんできたら、いつか、登場人物が一人歩きを始めるんだ、その瞬間、いいものが書けるんだと思う、と。
 バスに揺られながら、ノートの中の、くしゃくしゃに塗り消されている部分を読んだ。五十行あまりが一度に消されているところもあった。何度も書き直して、結局一番最初の台詞になっているところもあった。力強く塗り重ねられた鉛筆の跡に、表情すら感じられる。苛立ち、焦り、もう少し、あと少しとこめかみを押さえる姿が浮かんだ。
 それら全部を含めて、作品は輝きだしたんだ。そう、思った。
 今日も、家に着く頃には辺りは夜の中だった。部屋の中にまで夜は染み込んでいて、重たい空気を満たしている。ディバッグを椅子の背に掛けて、机の上にノートを置いて、机の上だけ蛍光灯を灯してみた。
 そのぼろぼろのノートの下には、永井君の書いた脚本が置かれたままになっていた。部長の言うとおり、まだ一度も読んでいない。読めるものか、触りもせず、ベッドの上でうずくまっていた。
 題は『迷宮夢』。そのままだ。今のこんな気持ち、そのまんまだ。
 上質紙の眩しい白。
 枕をぶつけてやる!
 机の上の、鉛筆も、カレンダーも、ノートも、脚本も、皆まとめて吹っ飛んだ。
 無理だったんだ。
 無理だったんだ。
 そう言えば、この前、最後に永井君に会ったあの日。喫茶店で、こんなことを言われたんだっけ。
 止めちまえって。
 自分で考えて、答えを出したのなら、それでいいんだって。
 これで終わり。
 次の日、学校に行く前に、地下鉄の駅で脚本を捨てた。鉄色のゴミ箱に投げつけられた脚本は、大きな音を立てて飲み込まれていった。
 これで終わり。もう、終わりなんだ。

——3−B教室

 たこのウインナーで林原を指して、泉が聞いた。
「結局、見つかったの?」
「無いから、困ってるのよ」
林原はこぶし大のおにぎりを頬張った。森山はウーロン茶を手のひらで回しながら、何か考えている。林原には、森山のそんな態度が、時々気に障ることがあった。森山がゆっくりと口を開いた。
「谷川に残りを」
「えーっ?」
林原が、ご飯粒を飛ばして叫んだ。
 丁度その時、扉が開いて谷川が入ってきた。林原は口を押さえて、耳まで真っ赤になった。
 谷川はまっすぐ自分の席に向かう。泉はそれを顔で追いながら、溜息混じりに、
「やってくれるかな?」
と呟いた。
「だって、今だっていい気分じゃないでしょ?」
「仕事、取られたようなもんだもんね」
林原はうなずいた。彼女にまだ、プライドが残っているならね、と付け加えたいくらいだった。
 谷川は自分の席に着くと、ディバッグを膝に置いて中を探り出していた。林原達はじっとそれを見た。谷川は見るからに無気力だ。森山は、首を小刻みに振って言った。
「仕方ないさ。やってもらわな」
ノートを落としたらしく、谷川は慌ててしゃがみ込んだ。彼女の椅子の周りに、メモやら新聞の切り抜きやらが散らばった。可哀相なくらい寂しい絵になっている。林原はぶつぶつと言った。
「でも、永井君の仕事の後じゃ、差が……」
 突然、前の扉から、A組の広田が飛び込んできた。そして、大声で森山達を呼んだ。
「永井君が!」
森山は立ち上がりそうになった。広田の声は教室中に響いた。
「永井君、学校辞めた……」
「ええっ!」
「一体いつ?」
 林原は立ち上がり、そして谷川の方を見た。聞こえていた筈だ。
 谷川は熱心に一枚の紙を見ていた。そして、おもむろに立ち上がると、その紙を両手で握りしめて、林原の後ろを通り抜けて、教室を走り出た。

——ノートに紛れて出てきた手紙

 谷川さんへ——
 こんな言葉があるのを知っていますか?
 「どんな人でも、一つだけなら、小説を書くことができる」
 継続が全て力になることは無くて、努力が全て報われるというのも迷信で、
 でも、自分の生きてきた年月だけは本物だ、という意味です。
 この物語の主人公は、まさしくあなたでしょう?
 ならば、あなたの物語は、あなたが書くべきです。
 この物語の結末を、僕が書くことはできないんです。
 あなたの手で、もう一度、決着を付けて下さい。
 なにより、自分のために——

——屋上

 もう一度、もう一度だけ、と谷川は呟きながら、秋の風に髪を揺らした。高い空と眩しい太陽を見上げて、大きく息を吸った。
 胸の前に両手を出して向かい合わせた。じっとその中心を見つめながら、谷川は両手をぎゅっと握りしめた。
「光った」
 谷川は、力強く握った。肩を震わせ、唇を震わせ、三年ぶりに涙を流した。
「今、光ったんだ」
 そのまま祈るように、谷川はひざまついた。握ったこぶしを眉間に擦り付けながら、笑いながら、泣いた。
「確かに、今、光ったよ。光ったんだよ」
 静かに、風が鳴った。確かに秋は来た。気の早い落ち葉が、宙を舞った。

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