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花 第一部

 サヌマ大陸の南、メルティーヌ王国。西北の国境をなすノース山脈に水源を持つ、サヌメニア川が大陸の南東のヴォル湾に流れ込むその過程で、緩やかな扇状地を形成している。広い台地を利用した酪農で栄えた国家で、人口三万人のうち、酪農業に従事している者が、実に四分の一を占める。サヌメニア川は開拓当初の交通の要であったため、主要な商工業都市や首都バカサは川岸に沿って栄えた。その後の度重なるノーサ=タム山の噴火によって、川の流れは大きく変わったが、時を同じくして馬車などの交通手段が発明され、人々の暮らしは陸へ、陸へ移り変わった。
 首都バカサのほぼ中央には、君主の住むバカサ城がある。大会議室には、この国の大臣達が集っていた。丁度、今日は会議の日である。およそ二十人ほどの三十歳を過ぎた年寄りの話し声で、広い室内は賑やかだった。太陽は既に真上に位置している。南向きの窓から、光が差し込むには辛い角度のようで、室内は少々暗い。乾燥した空気が、微かに緊張しているようだった。
 ところが、会議は一向に始まる気配を見せない。大臣達も、世間話の合間には懐中時計やら、柱時計やらに目をやった。部屋の中央にある、円い会議机について居眠りを始める者や、部屋の中をやたらとぐるぐる歩き回る者もいて、なんとも落ち着きが無い。ただただ大臣達は、王が起きるのを待っているのだった。
 王、パシャール=メール=ティマは、およそ知性や教養といった類のものからは縁遠い人物で、常に下品で、更に我が侭である。例えば、つい先日のことだ。祭典用の少し背の高い馬車があるのだが、王はこれに乗ろうと短い足で踏張ったため、「ガス」を放ってしまった。その音を運悪く耳にした近衛兵の一人が、愚かにも思わず吹き出してしまい、次の日、その男は全裸で町内を牛に引きずり回されたあげく、牛の糞を喉に詰められて窒息死した。
 大臣達はそういう話を多く知っているので、こんな時でも、王について決して悪く言わない。例え、幾ら戦局が慌ただしくなって死を覚悟したとしても、侮辱罪でだけは絶対に死にたくはない。つまり、大臣達はなんとかして王の機嫌を取らねばならなかった。
 例えば、大臣達は王の身の回りに気を配る。玉座など、王の座る椅子は全て普通のものより高くしておいて、精神的な優越感に浸らせたり、本棚等の高さを低くして王の背が低いことを気にさせないようにしたり、着る物も名のあるデザイナーを呼んではおべっかを遣わせて、比較的痩せて見えるものをさり気無く宛わせたり、とそれはもう必死である。
 王が演説をする時などは、更に血に滲むような努力がなされている。この前は、召し使い達が王に対して声を揃えて、
「お声が悪うございますが、御風邪ではないでしょうか」
と言っておいて、王をすっかりその気にさせた後に、こう続けた。
「残念でございます。このままでは演説は無理でございましょう。ああ、しかしながら、国民は皆、王の言葉を心待ちにしておることでしょう。ああ、一体どうしたらよいものか。おお、そうだ。我らによい考えがございます。宮殿歌手のドッテの低音の美声は、王のお声に瓜二つでございます。どうでしょう、王は演壇に立ってお話をするふりをなさって、お言葉は裏手から、こっそりとドッテに語らせては。文面も我らの方で考えます故、王は安心してお休み下さいませ」
つまり、字もまともに読めない王に演説なんぞできっこないので、毎回振りだけなのである。
 さて、いよいよ召し使いの一人がやってきて、玉座の左手にある扉を開けた。軋んだ扉の音を合図に、慌てて大臣達は席につく。軽快なファンファーレが奥から流れてくると、王の登場である。
 背が低くて、腹のあたりがぷっくりと脹れあがっている男、それがパシャール王である。深紅のマントを足に絡ませて、転んだ。大臣達は吹き出しそうになったので、顔を逸らしている。王は、立ち上がるとズボンをぽんぽんと叩いた。腹があまりにも出ているのでベルトが締められず、バックルが歩く速さに合わせてがちゃり、がちゃりと音を立てる。服の装飾が派手なため、遠くからでは王が服の中にいると確認できない程だった。故に、王が玉座に座った瞬間も、立派な服をぽんと無造作に椅子の上に載せたようであった。ただ二つ、王の短い足が立派な玉座と服の間から、ごみのように生えている。あげく、王の顔はまだ寝呆けていた。
 向かって王の左側に側近、ボウ=ダウカが歩み寄った。痩せた、二十歳くらいの比較的若い男である。ボウは、特徴的な口髭をいじりながら、まずはにやりと笑って咳払いを一つ聞かせて、おもむろに司会を始めた。王を除いて、会場はにわかに緊張の度合いが高まり、会議は実に二時間も遅れて始まった。
 このサヌマ大陸は二つの大陸によって二分されている。南はこのメルティーヌ王国、そして北はジノス=メール=ギチ皇帝のメルギッチ帝国である。メルティーヌ王国は建国以来、あらゆる隣国に対して友好的な態度を見せなかった。記録にある限りで既に六百七十年もである。六百七十年、この国は常に争い、領土を広げていった。
 その理由に、南海を隔てた向こう、大陸の存在がある。南の大陸の諸国は、植民地獲得のための血生臭い争いを続けている。その決着がつけば、次に標的にされるのは間違い無くこの大陸だ。メルティーヌ王国としては、背中の危険を封じなければ、これに備えられない。その背中が、メルギッチ帝国だった。
 大会議室ではボウの、見事とは言い難い演説が延々と続いている。大臣の多くは、その言葉を右耳から左耳へと流しているようだ。ボウはその年寄りのぼうっとした顔を眺め、内心嘲笑しながらも、話を続けた。
「大臣諸君、我々が何故、これ程長い間戦い続けているのかを忘れてはいけません。『神の力』を、憎きジノス皇帝なんぞに渡してはならないのです。奴に『神の力』を渡したところで、六百七十年前のような悪夢を繰り返すだけなのです。『神の力』を見つけ、本当にこの世界のために、正しく使うことができるのは我々だけなのです。大臣諸君、パシャール王と共に正義のために戦い、歴史に名を残そうではありませんか」
 六百七十年前、この大陸を或る悲劇が襲った。この大陸の全ての文明が消えて、一握りの人間と、草木と、獣と、土だけとなった。一体、何が起こったのか正確に覚えている者はいない。ただ、その圧倒的な「力」だけが、残された人々の記憶にあった。或る者は云った。「我々は、間違えたのだ」。
 しかし、後世の学者や権力者達は、この「力」に惚れた。全ての物理現象を超えたと云われる、それこそが「神の力」であった。言い伝えがあるのだ。「風よりも、雲よりも、火山よりも、大海よりも、季節よりも、時間よりも、何よりも強い力」が存在する、という。その力を制する者は、この世の何よりも絶対である。そして権力者は、その「神の力」を求めて争い始めた。
「では、その『神の力』は何処に存在するのか。我々も、そしてメルギッチのぼんくらどもも、六百七十年間色々な情報を集めたが、手がかり一つ掴むことができなかった。が、しかし先日、我々はついに信憑性のある貴重な文献を発見したのです」
大会議室が騒めいた。ボウはくくと笑って、自慢げに口髭をいじった。
 王は居眠りをし始めている。陽は少しずつ傾いて、室内に斜めに光を差し入れだした。

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