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 サヌマ大陸の北半分を治めるメルギッチ帝国は、元々は小さな漁業の国に過ぎなかった。当時、南側に比べて土地が痩せている北側の国々は、六百七十年間の度重なる戦争も手伝って、慢性的な飢饉が続いていた。そんな中でメルギッチ帝国は、半永久的な海の資源を糧に隣接する国々を吸収して、現在の体制へと発展したのだった。
 大陸の最北、アホガ岬の突端にアホガ城がそびえる。質素ではあるが巨大な、その塔の上に皇帝、ジノス=メール=ギチが住んでいる。皇帝は民衆の前に姿をさらすことを嫌い、ここにひっそりと暮らしていた。
 北の海を一望できる程の大きな窓のある部屋に、一見学者風の年老いた男がいた。皇帝、ジノスである。ジノスは石の玉座に座り、片肘をついて、前に見える大きな扉をじっと見ていた。こんこん、とノックが鳴り、ゆっくり扉が開くといきなり、ジノスは怒鳴った。
「馬鹿者、十分も遅れてきおって!時間にだらし無い奴は追い出すぞ!」
「も、申し訳ありません」
おそるおそる入ってきた、若い召し使いの女は、お盆にコップと水と薬とを載せて、玉座の隣に置いた。ぴくりとも、顔を動かさずに様子を見ているジノスに、
「あ、あの、テガマ将軍がみえております」
と、召し使いは言った。ジノスは、返事の代わりに顎をふいと動かして、下がれ、と指示した。
 おそるおそる出て行く召し使いと入れ替わって入ってきたのは、扉程の背丈はあろうかという大男、テガマ=ニニッツ将軍である。テガマは玉座の前で膝をついた。
「諜報部隊の報告です。メルティーヌに動きがあります」
ジノスは、片肘をついたままでテガマを見下ろしている。立って並べば、二倍にもなろう身長差も、玉座の上と下では逆転してしまうのだった。
「『神の力』に関することです」
「以前はゴル=ニチバにあると言っていたな。お次はどこだ」
「ゴル=ニチバにあると言ったのは、私ではありません。ロイザ=ディーパという、じじいの学者が……」
「いいから続けろ」
「パシャール図書館で解読中の古文書の中に、バンディーリッツの『大陸史』の草稿と思われるものが出て参りまして、その、『神の力』に関する記述が残されていたらしいのです」
「ほほお」
ジノスは笑みで、それに答えた。
 バンディーリッツ(メルティーヌ王国では「バンディルス」と発音する)は、この大陸史上で最も偉大な歴史学者である。代々歴史学者であった、彼の一族の残していった膨大な史料を、彼が半生をかけて編纂したのが「大陸史」である。「大陸史」は全十五巻にも及ぶ歴史書で、内容は王朝史から伝説まで多彩だ。
「すると何か?バンディーリッツは、六百七十年前のあの事件を知っていたのか?」
「は?」
「……バンディーリッツは何年に死んだ?」
「え、ええと……」
大男は、なるべく小さくなろうとするように、体をすぼめた。
「勉強しろ」
と、ジノスは付け加えた。額の汗を拭きながらテガマは、ただ頷いた。
「バンディーリッツは古代歴二百七十二年に亡くなったのだ。事件から五十三年も前だ。そんな頃に書かれた記述が、果たして正確だと言えようか」
「はあ。それもそうですね」
「……つくづくお人好しだな」
「は?」
ジノスは、肩を揺らして嘲笑した。テガマは意味が分からずただ、ジノスの顔色を窺った。ジノスは肘をついたまま、片側の頬を釣り上げている。
「これまで、口伝えの曖昧な情報しか無かったものが、六百七十年前の事件の、更に前に生きていたバンディーリッツが記録に残していたのだ。もし事実なら、本当に凄いことだぞ。もっと、胸を張れ。そして引き続き、諜報を続けろ」
「ははっ」
頷いたテガマは、そそと部屋を出た。ジノスは外に目をやった。雲が流れていく様子が、シーツを誰かが引っ張っているように見える。ジノスは眩しそうにしていた目を閉じて、しばらく考えを巡らせた。
「大陸史」の原文は古代サヌマ文字で書かれてあり、現在でも解読されていない部分がある。訳された部分も、抽象的な表現があり意味不明瞭な記述が多い。これは、バンディルスが本文を著す際に、文態を散文詩にしたためである。無論、この文学的に優れた文章が故に、現在でも文学作品の頂点に君臨している訳だが、史料文献としては厄介なものだった。
 そこで注目されたのが、バンディルス一族が収集した山のような史料を、「大陸史」に纏めるに当たってバンディルスが整理した、「草稿」である。ところが、「草稿」であるが故、まともな状態で現存するものは少ない。したがって、情報が事実であったとして、実際に解読が可能かどうかは分からないのだ。
 もう一点、ジノスには引っ掛かる節があった。ジノスは、十歳にして「大陸史」を読破した。が、「神の力」に関する記述は、一行たりとも見てはいない。
 バンティルスが死んだ、かの事件の五十三年前までは、「神の力」はただの伝説に過ぎなかったろう。だが、「大陸史」全十五巻の内容は、王朝史から伝説まで多彩だ。何故、この有名な伝説だけが、抜け落ちていたのだろうか。現在であれば、「神の力」に関する噂を流せば、扇動罪で捕らえられもしただろう。だが、バンディルスの生きた時代にはどうだったのか。もしかすると過去にも権力者達は、我々のように「神の力」を求めていたのだろうか。
 ジノスは、薬を飲み終えると立ち上がり、窓辺に立った。吹き込んでくる風は、潮の匂いだった。目を細めて、遠くを見やる。この海の向こうにも大陸があって、人間が住んでいるのだろうか。同じように、争っているのだろうか。攻められる時のために攻めて、負けないために勝とうとするのか。いつまでも、いつまでも、争い続けるのか。
 果てし無き迷路だ。終わることを知らない欲望は、やがて身を滅ぼすだろう。だが、巻き添えだけは許されない。奴らに、「神の力」を渡す訳にはいかないのだ。

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