大陸のほぼ中央にノーサ=タム山がある。この山は大陸を南北に二分しているノース山脈の中で最も高い山で、国境もほぼこれに等しい。ノーサ=タム山の西側にはちょっとした盆地があり、森林が広がっている。
森のほぼ中央、盆地の中央には湖がある。一体どこから水が湧いているのかも分からない、奇妙な湖だ。この湖はタムル湖というらしい。今日も湖は、その水面をわずかに揺らすばかりだった。それ程大きな体ではないが、巨大な存在感を周りの木々に放っていた。畔では鹿や狸や熊といった動物が、日向ぼっこや水浴びをしている。その上に森の木々が枝を伸ばして、邪魔をするようだ。枝には、様々な色をした鳥達が留まっている。
文明は全て、ノース山脈の東側、ラカンニ平原を往来した。妙な探究心にでも襲われない限り、この山脈を登ってみよう、などと思う必要が無かったからだ。切り拓いて畑を造るには、この山脈は急すぎる。登るだけでも命懸けだ。したがって、こんな所に盆地があって、湖があって、動物達の憩いの場になっていることを知る者は少ない。湖はきわめて少数の人間の目にしか触れず、そんな中でも、「タムル」という名前を知る人はかなり限られる。その中の一人に、リィナ=ティトルという七歳の女の子がいた。
紺のワンピースに、周囲に大きくつばのついた白い帽子を被ったリィナは、岩だらけのごつごつした道を、ひょいひょいと登りながらタムル湖を目指した。リィナが発見したタムル湖への抜け道、タムル湖のすぐ南側から流れ出すタニモ川は、きらきらと昼間の太陽を揺らしている。この川は、サヌメニア川と程無くしてぶつかる、小さな流れだ。
川辺を僅かにでも離れれば、乾燥した、夏の残り香のような空気に包まれるだろう。陽は少しずつ傾いてはいるが、日差しはまだかなりきつい。森はリィナを日差しから守ってくれた。リィナは、足を川の中に浸して、ばしゃばしゃと音を立てながら歩いた。時折、それをそおっとさせて鳥の声に耳を傾けたりして、静かな午後の時を満喫しながら、やがて森の色と匂いが深くなるのを感じた。湿気を帯びた草の匂い。帽子を取って、短い茶色の髪を掻き上げた時、目の前に湖のある風景が広がった。
「ニター」
と、リィナは呼ぶ。もう一度呼ぶ。一匹の鹿が、森の木々の隙間から顔を出した。木々の隙間からじっとこちらを向いて、リィナの姿を確認するとこちらへ駆け寄ってきた。すらっとした、長くて立派な二本の角を持った、年老いた牡鹿である。
「どうだった、ゲンツの容体は」
「うん、相変わらずだよ。チャルが傍にいたから、でれでれしちゃってた」
リィナは鹿の顔に頬摺りをして、その横に座った。
鹿の名はニタという。ニタはリィナの幼い頃からの親友だった。ニタはこの森の長である鹿で、この森で一番の物知りである。
リィナとニタは、或る言語を媒介に会話を交わす。ニタによれば、太古の昔、人間と、動物と、植物はこのたった一つの言語で結ばれていたが、人間は文明と引き替えに、この言語を捨てたのだという。ところが、腕白娘リィナは幼い頃から、親の目を盗んではここへ来てニタと遊んでいたので、自然にこの言葉を習得してしまったのだった。
リィナは今までに、ニタから色々な話を聴いた。数々の伝説、神話、昔から伝わる歌など。ニタは自分の存在とこれらの話を、絶対に他人に話してはならないと言った。ここにあるこの湖のことも、何も話してはいけない。そしてリィナはその約束を破ることは無かった。リィナは毎日、学校や家の仕事、幼なじみのゲンツ=ヤタタを見舞いに病院へ寄った後にここへ来て、今日のようにニタの話を聴くのだった。
やがて陽が赤く色付く頃、一番星が輝きだした。リィナは、父が家で夕飯を待っていることを思い出し、ニタに別れを告げ、急いで山を下った。ここから家までは、千メトン近く離れている。女の子にとって、夜道はずいぶん恐いはずだが、こうやってニタの話に聴き入ってしまって走ることはざらにあるため、リィナにはちっとも恐くはなかった。
最近、やけに風が背中を押してくる。振り替えるとそこにはノーサ=タム山が、薄暗い空に影を浮かべていた。母が、よく言っていた。ここに住むものは皆、あの山に見守られているのだよ、と。そのノーサ=タム山を背にして、リィナは走った。やがて、大きな小屋を脇に抱えた家が見えてきた。あれが、リィナの生まれ育った家だ。
「お帰り、リィナ。父さんは腹ぺこだ。早く旨いものを食わせてくれ」
「ごめんなさい、待っててね。後は温めるだけだから」
リィナは手を洗うと早速台所に入った。リィナの父、フジル=ティトルは食卓に書類を広げて、仕事をしている。
フジルはメルティーヌ王国軍の第五師団長である。小柄で少し細身、決して強そうではない体付きだが、明晰な頭脳の持ち主で、しばしば軍の最高戦略会議にも呼ばれる程だ。言葉数は少ないが、仕事は早いことで知られていた。昔は、若手随一の指揮力だと絶賛され、十六歳にして今の第五師団を託されて、そして誰もが、彼の出世を疑わなかった。否、こんなところで終わる筈は無い、いずれ必ずや一かどの者になるだろう。その彼を変えたのは、息子が死んだことでも、飼っていた馬を手放したことでもなく、一年前のゴル=ニチバ戦争だった。
この戦争は、大陸の東端、ゴル=ニチバ地方にある軍の工場をメルギッチ軍のボウガン(拳銃型の弓)部隊が奇襲したことで始まった。はっきりいって、寝首を掻かれたメルティーヌ軍の惨敗であった。にも関わらず、メルギッチ軍の侵入を防ぐことができたのは、第五師団が総力を挙げて死守したことによるところが大きいと軍は発表、その長たるフジルは勲章を得た。そして皆の予想どおり、彼の小将への昇進という話が、にわかに持ち上がった。
疑うことは要らない。現に勝ったはずのメルギッチ軍は、一メトンの領地すらメルティーヌから奪うことはできなかった。そればかりか、ボウガン部隊がほぼ全滅したという有力筋からの情報もあった。ボウガン部隊というのはメルギッチ軍の最新精鋭部隊で、これを倒したフジルはまさに無敵だ、と国民は諸手を挙げての騒ぎようだった。
だが、ゴル=ニチバから帰ってきたフジルは、以来決して戦場へ赴くことは無かった。果たして如何なる理由があって、彼はこうして書類ばかりを相手にする日々を送るのか。彼は誰にも、事実を語りはしなかった。そして、それを憶測できる者も少なかった。
やがて、鍋がことことと鳴り始めると、フジルは鼻をくんくんといわせて、
「おいしそうな匂いだ。シチューだな」
と言った。リィナは嬉しそうにくすくすと笑った。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「明後日は、何の日でしょう」
「そういえば……、明後日は、リィナの誕生日だったな」
「そうなの!」
リィナは鍋を持ったままくるりと一回転した。顔と体で嬉しそうに見せた。フジルは娘の呆れるくらいのはしゃぎようを見て笑っていたが、その娘が書類があるのに気付かずに、鍋をその上に置こうとしたので慌てて片付けた。
「プレゼントは何がいいかな」
「お願いが一つあるの」
リィナは棚から皿を出しながら言った。
「お母さんと一緒にお祝いしたいの」
フジルはびくりとした。リィナは楽しげに、シチューを注ぎながら話し続けている。
「お母さん、忙しくて家に帰って来れないでしょ?だから私、会いに行きたいの。ね、たまにはいいでしょ?工場の寄宿舎に二人で行って……」
リィナはシチューをフジルの前に置いた。そして、フジルの顔をじっと見つめた。
「駄目?」
目を大きく見開いて、リィナは父の返事を待った。
「……まあ、頼んでみるよ」
と、フジルが言うとリィナは跳び上がって先刻よりも喜んだ。
だが、リィナは気が付かなかった。フジルの顔色がわずかに変わったことを。リィナは次々と今日の出来事を話して聞かせている。ニタの話だけは口止めされているので話さなかったが、学校のことや町で見た出来事などを話した。フジルは頷きながら話を聞いてはいたが、意識はどうやら別の方に行っていた。
リィナの母、シャラ=ティトルは軍需工場で働いている。その工場には、ノース山脈周辺のいくつもの村から集められた工女が働いている。軍と同じ扱いで、他との接触をさける意味で寄宿舎生活が強いられた。年に何日かは肉親との面接や休暇を許されるが、それ以外はずっと働き詰めだ。フジルはそう、シャラやリィナに言って聞かせていた。
なかなか誰もやりたがらなかったが、フジルは軍部の手前、シャラに名乗り出るよう頼んだのが一年と二ヵ月前のことだった。任期が一年と聞いて、シャラは承諾した。それはフジルを愛して、信じているからのことで、それ以外の何でも無かった。
食事が終わる頃には、もう外は真っ暗だった。フジルは書類を届けてくると言って、そそくさと家を出た。暗闇に一つ、ランプの灯が進んでゆくのを、リィナはしばらく眺めていた。最近では、こんなことも珍しくなくなった。父は徐々に、以前の忙しさを取り戻しているように、リィナは感じていた。
リィナは、父を想う母のことも、そして父のことも心から尊敬していた。ただ一点、父が昔よりも笑わなくなったことが気に掛かった。時折、脱け殻のように黄昏ることがある。一年前からのことだった。
昔はよく、母と三人でピクニックに行ったな、とふと思い出して笑う。母に会えないのは淋しいが、母が一昨年の誕生日にくれた、あの白い帽子がある。そう自分を言い聞かせるのが、この頃の日課であった。神に向かって、今日の健康を感謝し、明日の平和を願うと、リィナはベッドに飛び込んだ。
そして、窓ががたがたと揺れるのを、ベッドの中からずっと見ていた。ノーサ=タム山からの風がいつもよりも強い。毛布を深く被って、じっとそれを見つめていた。
同じ頃、タムル湖の畔で、ニタは眠れずにいた。見上げるノーサ=タム山の上に輝く、星々の並び方がおかしい。言い伝えによると、そこに強く輝く星が六つ、縦に並ぶ時に悪魔がこの世界に誕生するという。まだ、六つの星は並んではいない。だが、その気配は明らかだ。もう少しで、あと三、四日のうちにそうなる、そんな気配にニタは震えた。実際、悪魔とはどんなものなのか、ニタは知らない。だが、妙によぎる予感が彼を怯えさせている。何故だろう、リィナがずっと昔に言った、こんな言葉を思い出した。
「この森には、花が咲かないのね」
別にリィナは何かを意識してそんなことを言った訳ではなかったが、今思うと暗示のようで、恐ろしい言葉だった。こんな言い伝えがあるのだ。悪魔というのは、現れた証に花を咲かすのだという。その花は、この上無いくらい幻想的な色彩の花だという。この湖の畔に花が咲かないのは、まるで悪魔の花を待っているかのようではないか、そう思えてニタには恐ろしくて堪らなかった。体が震えているのは、そうだ、寒さのせいだ、と必死に自分に言い聞かせるのだった。
ノーサ=タム山から冷たい風が、容赦無く吹き降りてきていた。そんな中を男が二人、暗い道をリィナの家の前まで向かって来る。一人はフジル、そしてその横は全国青少年隊を指導している、ダバ=ガジャ中将だった。彼はノース地方に駐屯する第一師団の師団長であり、フジルの上官でもある。
「どれを使うのだ」
と、独特の低い声でダバが聞いた。がっちりとした肩の上に乗っかっている、少々髪の薄い頭が、フジルを見据えた。フジルは家の左隣にある大きな倉を指した。昔は馬小屋として使っていたが、今では飼い葉の匂いすらしない、木製の大きな小屋である。
「一万丁置いても、お釣りが来ます」
「そうか、場所が余ったら会議机も持ってこよう。ここからならば指揮が楽だ」
ダバは北に振り返った。暗い中でもノーサ=タム山はくっきり見えた。
山はまるで全てを知っているかのように静かであった。