リィナは鳥に起こされた。うっすらと東の空が白くなり始めた頃、リィナは、両目の瞼を擦りながら台所に着く。冷たい水に手をつけて、震える手で野菜を洗い始める頃、フジルが帰ってきた。
「あら?お帰りなさい、お父さん。どこに行ってたの?」
「うん、裏の倉に行っていたんだ。倉の中を整理しようと思ってね」
フジルは、手を洗って食卓に着いた。
「ねえ、お父さん、昨日のこと忘れないでね」
「え?」
「お母さんのこと」
「あ、ああ」
すっかり忘れていた。が、それをリィナに悟られぬようにフジルは、さもとぼけていたように頷いてみせた。リィナは上機嫌だった。
「お願いよ、約束してね」
「ああ、頼んでみるよ」
「神に誓って」
フジルは黙ってまた、頷いてみせた。リィナは、パンとスープとサラダを食卓に置くと、いただきますも言わずに、さっさと食べ始めた。フジルは、そんな少々作法の欠けた娘を、しばらくじっと見つめた。
娘はまだまだ子供で、疑うことを知らないのだ。人を信じて、神を信じている。
側近、ボウ=ダウカは「神の力」を手に入れようとしている。もし現実に、ボウが神と対等の力を得るのなら、「神」は「豚」と等しい存在ということになるのか。娘は、まだ、神を信じている。国民の多くは、メルギッチ帝国は我々に敵対している、この戦争に勝って平和な大陸を手にするのだ、という軍の言葉を信じている。
信じること、その全てがボウによって仕組まれた、巧妙な茶番だ。田舎の大将だったパシャールを、煽て上げ天下を取らせて、王に仕立て上げ、この国の実権を掴んだのはボウの方であった。それに気付いて、だが何ができるというのか。大きな流れを止めるには、それを上回る力が要る。それすらも、後手に回ったのならば、神の名を語る茶番が続くより他、あるまい。
神は、この悪態に怒りの拳をあげるのだろうか。誰の頭上に?それとも我々はもう、神を超えたとでもいうのか。或いは人間は、神とは相反する方向へと進んでいるのか。何処へ?
気が付くと、リィナは既に食事を終えていた。すっかり冷めてしまったスープが、フジルを益々悲しくさせる。その様子を見て、リィナはくすくすと笑った。
リィナは、食事の後片付けを済ませると、父よりも先に家を出る。勿論、お気にいりの白い帽子と一緒である。リィナは、午前部の授業に出るために学校へと向かった。鼻歌交じりに、会う人会う人と挨拶を交わして、遅刻しそうになって途中から走りだして、学校に着くと、始業五分前のベルが鳴った。
リィナはいわゆる劣等生だが、クラスの人気者でもある。独特のおとぼけと、歌だけは飛び抜けて上手だったこと、そして何より優しい性格が学友に好感を与えた。休み時間には、多くの学友がリィナを囲んだ。その中に、幼なじみで一番の親友、チャル=モノモがいる。
チャルはリィナと違って校内で一、二を争う成績の持ち主で、いわゆる模範生として先生方の期待を背負っていた。はきはきとした口調が、男の子のようだ、とリィナはよくからかっていた。それを理由に、最近は髪をのばしてポニーテールにしている。
二人はいつものように授業が終わると、午後にまた会おうね、と言って別れた。リィナは夕飯の買い物を済まして家に帰り、たった一人の昼食を済ませた後、ゲンツの入院している病院へ向かった。
そこは、この地方では一番大きく、一番古い病院である。大部屋の一番窓側にゲンツのベッドがある。チャルが枕元に座ってゲンツに林檎を食べさせてあげていた所へ、リィナは扉を開けた。ゲンツは、耳まで赤くした。リィナはわざと、
「ああら、ごめんなさい、お邪魔だったかしら」
と意地悪そうに言って、ゲンツを益々赤くさせる。同室する患者達もくすくすと笑った。
「ちょっと、リィナ、あんまりいじめないでよね」
と、チャルは少しふくれてみせた。大きな目がとても印象的だ。一方ゲンツは、昔はそれこそ見るからに腕白な少年だったのだが、今では腕も細り、頬もこけてしまっていた。
三人は、いつものように、取るに足らない下らない話に沸いた。
「だからね、私は言ってやったのよ」
と、チャルは先生の悪口を始める。
「文学を習ったらメルギッチ帝国に勝てるんですか?って。私ね、あんな無駄なことを教えている先生達よりもずっと、リィナのお父様とかの方が偉いと思うの。私は、剣術とか、弓道の時間の方が好き。面白いしね。そりゃあ、女の子だから戦線には出られないんだけど、私ね、青少年隊に入ろうと思うの」
そう言ってチャルはゲンツの手を握った。ゲンツとリィナはしばらく呆気にとられていたが、あまりにチャルが目を輝かせるので、つられて笑った。チャルの演説好きは、今に始まったことではない。
「ね、ゲンツ、貴方が元気になって隊に戻る頃には、私ね、きっと男の子に負けないくらい勲章を胸に付けているからね」
「まいったな、だったら俺、ずっとここにいようかな」
と、ゲンツはからかった。チャルは少しふくれてみせた。リィナは二人が絵になっているのを滑稽に思い、少し妬いて、笑ってみせた。
「でも、戦争なんて本当は早く終わればいいのにな」
ゲンツは窓の外を見た。サヌメニア川の向こう側にはノーサ=タム山が横たわっている。この窓からもくっきりと山は見えた。
「なんとなく、この戦争の勝敗は付かないような気がするんだ。一体誰が何のために戦っているのか、分からなくて、これじゃあ右手と左手の喧嘩だよ。どちらの国が勝ったところで何も変わらないさ。狭い大陸の中で暴れ回っているだけで、国を手に入れようなんて思ってるのは、大臣とか王様とか、ごく一部の人間だけで、それにメルギッチの人間だって、本当はいい奴もたくさんいるかも知れないじゃないか。いい奴を殺すのはいいことなのか?そう思うと皆、無意味なことに見えるよ」
「じゃあ、ゲンツはどうしてゴル=ニチバで戦ったの?」
リィナは首を傾げた。ゲンツは返答しなかった。
「疑ったら、駄目なのよ」
チャルがそっと言った。
「もう、誰にも止められない、大きな流れなの。疑ったら、それだけで罪になるのよ。私達はね、とっても小さなものなの。だから何もできやしないのよ」
「大きな流れ?」
リィナには、その言葉の真意が掴めなかった。チャルは説得する口調で言った。
「国家は偉大だわ。そうでしょ?」
はっとして、リィナは頷いた。だが、チャルの発言を理解し得た訳ではなく、「国家は偉大であるか」という問いに対する答えは「はい」でなくてはならないと学校で習ったので、リィナは頷いた。チャルはそれを見て、胸を撫で下ろしてから頭を振った。
「大体、ゲンツ、あなたがこんな話をしなければよかったのよ。ただでさえ暗い顔してるのに、余計に暗くして」
「あっ、そんな言い方あるか?見舞いに来てくれたんじゃなかったのか?病人をいじめていいのか?なあ、リィナ」
「駄目よリィナ、甘やかすとすぐ、つけあがるんだから」
リィナは、そんな二人の傍らで、そっと笑った。
その日、ニタは遅い目覚めを迎えた。昨夜、よく眠れなかったため、いつもよりも太陽が高く上がってからの目覚めだった。森の奥のねぐらの周りで、木の実などを食べて昼食を済ませ、森に変わりが無いことを確認すると、また一眠りした。そして陽が傾き始めた頃、リィナの声に再び目覚めた。
「どうだった、ゲンツの容体は」
「別に、この頃は変わり無いわ」
「それならよいのだが」
ニタは少し空を見上げて、それからゆっくりと腰を下ろした。その隣にリィナが座った。
「……今日は、悪魔の話をしよう」
と言って、ニタは小刻みに角を振った。
「そいつがどこに眠っているのか、誰にも分からない。姿を消したままでそいつは目覚め、誰にも分からぬまま、徐々に、この世のあらゆる生物を殺してゆくのだ。悪魔は力を増して、この世を我が物にしようとする。だが、神なる光がいずれ、これを滅ぼす。消え逝く悪魔は、神なる光を仰ぎ、言った。『悪の光が、我を滅ぼす』」
「……悪魔が悪の光で神の光の……変なの」
リィナが眉を潜めるのを見て、ニタは笑った。それから、もう一度空を一度仰いで、言った。
「わしは、ゲンツの病気は実は、悪魔の仕業ではないのかと思うんだよ。わしの知っている限りでは、この自然界にあんな病気は存在しない」
「……あんなに元気なのに?」
「徐々に悪くなっているだろう?その歩みはあまりにも遅いが。ゴル=ニチバ戦争が終わった頃から、東の空が変だ。きっと何か良からぬことが起きたに違い無い。ゲンツはそこにいたんだろ?治る見込みなぞ……」
「そんなこと無い!」
リィナは怒って地面を叩いた。するとニタはまた、くすくすと笑いだした。
「リィナ、ゲンツのことが好きなんだろ」
と言われて、リィナは耳まで赤くした。
「ずっと昔から、今でも好きなんだろ」
「それは……」
リィナはうつむき、ふてくされたように口を尖らせた。二、三度、何かを言いかけたが、またしばらく沈黙し、やがてゆっくりと話し出した。
「私と、ゲンツと、チャルは幼なじみだから、だからチャルの気持ちも、ゲンツの気持ちも知っているんだ。ゲンツは、チャルが好き。チャルも、ゲンツのことが、私なんかよりもずっとずっと、好きなんだよ。二人は嬉しそうで、私にはそれで十分」
「本当かい?」
「うん。だってね、いつかきっと私の前にも、もっともっと素敵な人が現れるんだから。……嘘じゃないもん。今は早く、ゲンツが良くなってくれるように、神に祈るの。ゲンツのために、チャルのために、私のために、ね」
リィナは笑ってみせた。精一杯強がってみせた後、ふうと溜め息を吐いた。
ニタは、じっとリィナの顔を覗き込んでいる。それに気付いてリィナは、照れ隠しに言った。
「ねえニタ、神様ってどんな姿なのかな」
「……分からない。もしかしたら、わしのような動物の姿なのかも知れないし、リィナのような腕白娘のような姿かも」
「ひどいなあ」
「悪魔だって同じだよ。だからこの世界に存在する、たくさんの生物の中から、悪魔を見つけ出すことは容易ではない。人間だってそうだろ。見ただけでは、いい奴なのか悪い奴なのか分からない」
「ふうん。……ああっ、しまった」
「どうした?」
「私、すっかり夕飯の支度を忘れていた」
「はは、リィナは見掛け通りののんきな娘だね。気をつけてお帰り」
リィナがタニモ川を辿り始めた時には、夕日は既にノース山脈に隠れ始めていた。川原を歩くリィナの足元は薄暗くて、リィナは少しびくつきながら、それでも急いで川を下った。山を下り終わると、辺りはもう暗くてよく見えなくなっていた。家でお腹を空かして待っているだろう父を思い、リィナは駆け足で家に向かった。
時折、強風がノーサ=タム山の方から吹いてくる。その度にリィナは、お気に入りの白い帽子が飛ばされないように、両手で押さえた。ところがついに、サヌメニア川を渡った辺りで、風がリィナの帽子をさらったのだ。
「あっ」
と叫んでリィナは帽子を目で追った。大変だ、川に落ちてしまう。
その時、薄闇に一人の少年が、土手の方から腕を伸ばしてそれを掴む様子が見えた。
「あっ」
少年は足を滑らせて川へ、吸いこまれるように落ちた。ばしゃっという、鈍い音がリィナの立つ石橋の辺りまで聞こえた。
「……帽子は大丈夫ですよ」
少年は川の中から叫んだ。