花
五
リィナと同じくらいの年頃に見える少年である。活発そうな顔付きで、身形は少々薄汚い。どうも旅人のようだ。大きなリュックを持っていたが、幸い土手に置いていたので無事だったようだ。しかし、彼の体の方はずぶ濡れになっている。大きなくしゃみをすると、少年は川から上がった。リィナは、走って彼の傍へ寄った。
「すいません、大丈夫でしたか?」
「大丈夫、大丈夫」
少年はまたくしゃみをした。全然大丈夫ではない。リィナはくしゃみを避けつつ、
「ごめんなさい、冷たかったでしょう」
と、少年を気遣った。しかし、リィナが少年の様子を見ようと顔を近付けると、少年はくしゃみをするので、リィナはその度にまた顔を背けた。しまいにリィナは、申し訳無くなって、彼を家に招待することにした。
「トトって呼んで下さい」
少年は鼻を擦りながら言った。リュックを背負うと同時に背中が、べちゃっという音を立てる。
「旅の方ですか?」
「ええ。一年半程前から、放浪の旅を続けてるんです」
「へえ」
リィナは少しこの少年に惹かれる所があった。この町には、滅多に旅人など来ないということもあるがそれ以上に、この少年が、土埃で汚れているとはいえ、なかなかの美顔であることもリィナの興味を惹いた。昔のゲンツの雰囲気によく似ている。沈黙が大分続いたのでリィナは、なんとかして会話の糸口を掴もうとした。
「どちらから?」
「ずっと東からです。ラカンニ平原を西へ西へと歩いてきました」
「どちらへ?」
「えっと、とりあえずはこの辺で二、三日のんびりしていきますが、西の果てまで行ってみようかと思うんです」
「へえ」
リィナよりもトトの方が背が高く、リィナはトトを見上げるように歩いている。トトは、続けて二、三度くしゃみをした。鼻が真っ赤になっているのが、暗くてもよく分かった。ノーサ=タム山から、風は容赦無く吹き付けている。前方にリィナの家が見えてくると、リィナは早足になった。
「さあ、どうぞ」
フジルはまだ帰っていなかった。気にはなったが、それどころでない。リィナはランプを点け、暖炉に火を入れると、自分の部屋から毛布を持ってきた。トトはしばらく室内を見回していたが、やがて暖炉の上の壁に掛けてあった賞状に目を留めた。
「ああ、それは私の父のものです」
自慢げにリィナは言った。トトは荷物を床に置いて言った。
「軍人さんですか」
リィナは毛布をトトに手渡した。
「ゴル=ニチバを御存じですか」
「あ、……ええ、故郷の近くですから」
「この賞状は一年前のゴル=ニチバ戦争の時のものなんです。戦争があったのは知っていましたか?」
「えっ?」
トトは、どうやら別のところに意識があったような声を出した。
「ああ、戦争のことですか。大変だったらしいですね」
暖炉がゆっくりと炎を揺らし始めた。パチリ、パチリと薪の音を聞いた後、リィナは思い出したように台所へ行って、釜に薪をくべて戻ってきた。
「あの、夕食をよろしかったらどうぞ。それから、ええと、服を乾かさなくちゃ」
「あっ、ありがとうございます。服は着替えがありますから、その……」
「そうですか、どうぞ着替えて下さいな」
「あの……」
「はい?」
「向こう、向いていてくれませんか?」
「ああ、すいません」
暖炉の火ほど耳まで赤くなったリィナは、台所に引っ込んだ。
背中の方にごそごそという音を聞きながら、パン蒸し器の湯気をぼうっと眺めていた。時折暖炉の薪がパチリ、パチリと音を立てたり、外の風が窓をごとごとと揺らす音が、リィナにはどこか楽しげに聞こえてならなかった。やがて、
「終わりましたよ」
という声がして振り返ると、麻地のぱりっとした服を着た、立派な姿の男が笑っていた。軍人のようにがっちりとした体付きで、だが優しい視線をリィナに向けていた。リィナはどきっとした。慌てて、それをごまかすように後ろを振り向いてみると、丁度パンがいい具合に蒸しあがっている。
リィナはてきぱきと食卓の準備をした。三人分の皿を用意するのが、リィナに妙な快感を与えた。父の皿を残して、二人の皿にパン、サラダ、肉料理、スープを載せた。湯気がトトの鼻を包んだようだ。
「美味しそうですね」
と、トトは笑った。リィナは照れて、またも赤くなった。
「なんで旅をしようかと?」
「なんとなく……、家も無いし」
「ええ?一人で旅をしてるんですよね」
「ずっと一人です」
「ご家族はどうなさっているんです?」
「否、……僕は孤児だから」
「……ああ、すいません」
恥ずかしさにリィナが顔を下げると同時に、トトの腹がぐうと鳴った。すると今度はトトが頭を低くした。
「すいません。昨日から、一匹を釣れなくて、魚が……」
見るとトトの皿の上には既に何も無かった。
「遠慮なさらずにおかわりして下さい」
「いやいや……」
と、トトは断ろうとしたが、腹の方は立て続けにぐう、ぐうと鳴りだしたので、もはや遠慮する口実も無い。リィナはくすくすと笑って、トトの皿を持ち上げた。
「でも、おかしいですね。サヌメニア川で釣っていたんでしょ?あそこで釣れないってことは、まず無いんですよ」
「そうですか?まさか釣りの方法が違う訳でもないだろうに……」
トトはリィナの手から皿を受け取ると、またも吸い込むようにたいらげた。リィナは呆然とその様子を見ていた。トトはにこりと笑うと、
「ご馳走様。美味しかったです。それでは」
と言って、席を立った。リィナもつられて席を立った。
「今夜はどちらへ?」
「その辺で野宿ですよ」
リィナは泊まっていけば、と言いたかった。近頃めっきり冷込みも厳しくなっているし、家には空いている部屋もあるし、……。だが、リィナにはそこまで言う勇気は無かった。ただ黙ったまま、トトが荷物をまとめている姿を眺めるばかりである。
「それでは、さようなら」
「あっ、ええ」
トトは一礼してドアを開けた。リィナが歩み寄ってドアを押さえる。そして、余った手を振って彼を見送った。
トトはみるみる夜の闇の中に消えていった。リィナは目を細めて凝視しようとしたが、風がノーサ=タム山からそれを遮るように吹き付けてくる。風の音に身震いして、リィナは止む無くドアを閉めた。部屋の中では時折、暖炉が薪を鳴らす他は音が無く、リィナは立ち尽くして、それと自分の鼓動の音を聞いていた。
突然ばたんとドアが開いて、今度はフジルが入ってきた。
「あっ、お帰りなさい」
「すぐ出る」
フジルはそう言い切って、娘の顔も見ずに自分の書斎に走り込んだ。どたどたと書類の山を崩す音が聞こえたかと思うと、何枚かの書類を手にフジルはすぐ出てきた。
「すまない、今日は帰ってこれない。お休み、リィナ」
と言うと、フジルは走って出て行った。外では馬車が待っていたらしく、それに飛び乗ったかと思うとみるみる夜の闇に消えた。やはりリィナはしばらく呆気にとられていた。
何がどうしたのか、今日という日が、とても変な一日に思う。昨日までの平凡な毎日が、今日は何か違うみたい。明日は誕生日だから、そうだ、きっとこれは何かいいことの前触れに違い無い。とにかく、何かが動き出している。音を立てて、この体が大人になっていくみたいで、とても不思議……。
幼い頃読んだ絵本にあった台詞に、彼女風の演技を加味して、居間を舞台にして踊っていたリィナは、袖がスープを掠った時に、はたとテーブルの上を片付けなければならないことに気付いた。ふわふわとした不思議な感情に身を委ねながらも、リィナは食器を片付けた。何も載っていなかった筈の父の皿も、迷うこと無くごしごしと洗った。
やはり、いつものリィナではなかった。フジルが妙に、慌ただしかったことに気付いていなかったのだから。
今日はもう寝てしまえ。そして、夜が明けて、明日は誕生日だから。
台所の後片付けを終えると、リィナは暖炉の火を消そうと歩み寄った。
「あれ?」
暖炉の前に、小さな黒い石を見つけた。
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