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 フジルは目を暝り、感慨に耽た。その隣にはダバが座っている。フジルは、何かものを数えるように口篭もっていたが、疲れたのか、こめかみを押さえて頭を振った。ダバは、その様子をしばらく平静な顔で見ていた。だが、
「ゴル=ニチバを思い出した」
とフジルが呟くと、はっとしてフジルを見やった。まだうつむいているフジルの襟元を掴み、
「馬鹿なことを言うなよ」
と、ダバはあくまで静かに言った。フジルは溜め息を吐いて、しばらくは黙って馬車の走る音を聞いていたが、堪りかねて不意に窓から顔を出した。外の空気は、ごうごうと風切る唸りを上げていた。馬車の速さもあろうが、近頃のノーサ=タム山からの風が辺りの木々を揺らす音も物凄い。御者の鞭振る音すら聞こえないのだから、つまりはこちらの声も聞こえまい。そう判断したフジルは、頭を引っ込めるとダバに言った。
「ダバ中将、貴方はこの国の未来永劫の安寧を信じていらっしゃるか?」
ダバは質問に、少し沈黙を置いて、
「勿論」
と一言答えた。
「ならば……」
フジルは身震いをして言った。
「私も、そう、信じております」
その声がわずかに震えているのは、フジルにも分かっていた。だが敢えて、自らに問うように、フジルはダバに問うたのだった。ダバは沈黙を守るように、目を閉じる。それを見ていたフジルは、小馬鹿にするように、ふふと笑った。
「私も道連れですか……」
 そんなフジルの言葉にダバは、やはり笑って答えてみせた。しかし、ダバの笑みには、明らかに含みがあることに、フジルは冷汗を拭う。ダバが、「ここで部下を失うことが得策ではない」と考えてくれて良かった、とフジルは思った。この瞬間、フジルは危機を脱し、同時に一つの確信を掴むことができた。ダバは国家を裏切る何かを企て、或いは既に実行しているということである。それが何であるのか、自分はどうしたら良いのか、もはやそんなことを考える余地もあるまい。それもやはりフジル自身がよく知っていることだった。
 フジルにとって、ダバは上官である。ダバが国家を裏切り、もしくは国王に楯突くことがあろうと、ダバの部下であり右腕であるフジルはそれに従わねばならない。それが組織というものであり、見えない鎖はフジルを縛っているということを、無論フジル自身が一番良く知っている。だがフジルは、敢えてそれから逃れようとはしまい、と決めた。流されるように、フジルはぼうっと外を眺めるばかりであった。
 二人を乗せた馬車は、闇を潜るように南へ走った。ノーサ=タム山からの風も届かなくなる頃、首都バカサが見えてきた。馬車はバカサ城へと向かった。
 夜の中に、バカサ城は沈黙していた。しかし馬車を降りて見上げてみると、巨大な門の奥の、山のような石の建物が、その上の右角の窓を光らせていた。あれは、大会議室である。こんな夜中まであの部屋に明かりが点いている、それは大事を意味した。だからこそ二人は大急ぎでやってきたのだ。二人は門番に連れられて吊り橋を渡り、城壁から飛び出した形をした門を潜った。
 さて、こんな夜中の会議であるから、当然どんな大事な会議であっても、王は列席しない。今頃は、夢の中であろう。大会議室では、側近ボウが正面に座っている。周りの席にはまだ所々空きがあった。
 ボウは時折くくと笑った。その度に揺れる口髭が、向かいに座っているフジルを不快にさせた。フジルから右に二人程挟んで、ダバが座っている。ダバは腕を組んで、周りのざわめきを無視するかのように、目を瞑った。彼の向かいに背の曲がった白髪の老学者が座った。しわくちゃの顔が自信たっぷりに笑う。学者の名はロンサ=テップという。
 老人ロンサは、その陰険そうな顔の通りの男である。彼はこれまで数多くの武器、兵器を開発しては、その政治的地位をも向上させてきた。現在の地位、ボウの席から右にわずか二つという地位を確固たるものにしたのは、一年半前の「火炎兵団計画」で、試作品はこのバカサ城の倉庫に眠っている。その後に量産型が設計され、ゴル=ニチバに工場を造り量産を開始する予定だった一年前、メルギッチ帝国がそれを阻止せんと新兵器ボウガンで対抗、これがゴル=ニチバ戦争である。この戦争により工場は全壊した。
 ロンサが軍の最高戦略会議に列席するのは、これが初めてである。だがロンサは、年の功とでもいうのか、余裕たっぷりの笑みを浮かべている。やがて、大会議室の扉がおもむろに閉められると、室内はしんとなった。集った者達の目が集まったのを確認すると、ボウはゆっくりと立ち上がった。
「諸君、私は夢を見た。我らが王国が、大陸を統一する夢である。神となられた王の下で、豊かな食物と美しい花や草木に囲まれ、獣達と共に歌を歌い、千年の平和を手にする夢である。これは正夢である、と私は信じている。もうこれで、無駄な血を流すことは終わりだ。我々は、神に代わって人類を淘汰する。それはすなわち、メルギッチのジノス皇帝や配下の者、または我々に反抗する、とち狂った輩を一斉に排除し、我々メルティーヌの高貴な者のみが残る世界を創ることである。『選ばれし者』とは我々のことであり、これから『神』とは、我らがパシャール王のこととなるのだ」
 ダバは吹き出すのを堪えて、手を叩いた。どこかで聞いたような台詞を繋いだその演説は、ボウの文学的知識の低さの表れだ、と思いながらフジルも手を叩いた。他の者はボウの演説を間に受けて拍手した。または、ボウの権力を恐れて拍手した。或いは、ボウこそが真の英雄になり得ると信じ、ボウを支持し、ボウに媚びるために手を叩いた。ボウはその全てを、自分の都合のいいように解釈して話を続けた。
「では作戦を説明する。詳細はこれから回す書類にある通り。この作戦は勿論、『神の力』を手に入れるための戦いである。場所はノーサ=タム山を越えたメルギッチ領、時は二日後、おっと日付は替わったのか……明日、日没から四時間後とする。ノーサ=タム山の麓、今のメルギッチ領タグラート地方にあるタグラート湖の湖底深くに『神の力』は眠っている」
室内が揺れた。確信を持つボウの言葉に圧倒された。六百七十年間、誰一人としてここまではっきりと「神の力」の所在を断言した者はいない。ボウはにやりと笑って口髭をいじった。
 この作戦は彼にとって重要なものである。
 この会議には主だった軍部の役人がことごとく列席している代わり、多くの大臣達は姿を見せない。大臣達は戦略について無能であるし、閣僚会議よりも下位にあたる、こんな会議にわざわざ足を運ぶ気にはどうしてもなれないからだ。勿論、歳をとって足元がおぼつかないのも理由であるが、加えて彼らはボウを軽視、或いは蔑視していた。若手の中では最も優秀ではないかと噂されるボウではあるが、ボウ個人で成功させた業績は無く、従って勲章の数も意外に少ないからだ。
 しかし、それはボウが貴族や大臣の名を借りて、自分は水面下で動いている結果であった。頭の回転の鈍くなった年寄り達は、自分の名前が冠に付いた「成功」に浮かれ、ボウを可愛がるように扱った。そんな態度で接していたために、やがて自分達熟練者の方が、知恵も権力もボウより上回っている、という幻想に取り憑かれることになったのだった。事実、表の権力者とは彼等大臣達のことだ。しかし、軍部と下位役人のほとんどは、ボウの勢力下にある。
 大木である大臣達は、ボウという土壌のお陰で立っていられることに気付いていない。そして、それ意外の者は、その辺に生える雑草である。つまり、何もできない者、何かしたくてもボウや大臣達が恐い者、何にも関心が無い者。結論、何もできない彼等は当然、歴史には無視されている。すると実際、現在の国家を動かしているのはボウの方になるのだ。
 フジルは寒気を覚えた。ボウの笑みの訳を悟ったからだ。ダバも、列席した中の感の良い者は皆、悪寒が走った。それが更にざわめきに変わるのは、手元に回された書類に皆が目を向けた瞬間だった。予感が確信に変わる瞬間である。
 作戦に加わる兵力が、民兵を含めて一万。総兵力の五分の四である。軍部が密かに開発した新型ボウガンが五千丁、刀剣類が全部で三千本、そして新兵器が三千機用意される。軍部のほとんどの勢力が集結するこの作戦は、感の良い者ならクーデターを意味することぐらいすぐに読み取れた。
 正に満を期した。ボウ、人生最大の賭である。世紀の支配者となるか、見事に転んで笑い者となるか。それを決めるのは「神の力」。ノーサ=タム山の麓、メルギッチ領タグラート地方に「神の力」があるのか。ボウは笑った。勝算の無い賭はしない。
「『偉大なる力、風よりも、雲よりも、火山よりも、大海よりも、季節よりも、時間よりも何よりも強い力、この地に眠る。神の御宿より北、東へ二つ。神の御鏡、選ばれし者の身を映し、選ばれし者の言葉を唱えれば、願いは叶う。最も偉大で、永遠なる力。大罪の証』
 世紀の大歴史学者バンディルスは断言しているのです。『神の御宿』とは他ならぬノーサ=タム山のこと。その頂より『北、東へ二つ』。すなわち北東へ二ダノの所。ダノとは古来より伝わる神、ディノの名から由来した距離の単位です。バカサ城の設計者、グレン=ガモは古代ボーケ王朝の城の設計を基にして、城壁の外周を一ダノとした、と言い残しております。すなわちこの城の外周五百二十二・六三メトンが一ダノです。ノーサ=タム山頂から北東へ千四十五・二六メトンの所とは、メルギッチ領、タグラート地方。そこには、『神の御鏡』、すなわち湖があります。タグラート湖に、『神の力』は眠っているのです」
 おおという唸り声が揚がった。ボウは満足そうに口髭をいじった。
 ロンサもまた満足そうにくくと笑った。フジルはそれを見て察した。ボウは確かに頭脳明晰であるが、歴史学などに長けてはいなかった。つまり、ロンサの入れ知恵がなければ、バンディルスの書いた古代サヌマ文字を解読などできる筈が無い。
 ロンサはこの世紀の一大発見をした時、小躍りする心を抑えて、知恵を巡らせた。誰もが欲しがるこの情報を、さて誰の耳に挟むべきか。パシャール王は無論問題外であったが、それ以外のありとあらゆる大臣、軍人の顔を思い浮かべては、その展開を予想した。
 メルギッチ帝国の閣僚も例外ではない。ロンサは、自分の面白いように時代が動くのであれば、裏切りも平気でする男だった。現に、メルギッチ軍のボウガンの設計者の名はロイザ=ディーパといって、これは大胆にも、自分の名をメルギッチ読みにしただけである。
 さて、ロンサは情報をボウに渡した。案の上、ボウは狂喜乱舞し、この計画に至った訳だが、果たしてロンサがボウに好意を抱いていたかというとそれは否である。というよりもむしろ、ボウの方が一方的にロンサを拒絶していた。
 ボウは貴族出身ではなかった。従って、幼い時から教育というものを受けることができなかった。知識のほとんどを独学したボウにとって、坊っちゃん育ちの恵まれた教育を受けたロンサはよく映らなかった。確かに比べるならば、勿論ロンサの方が知識はある。同等の教育を受けてきたのならば諦めもつこう、ハンデがあって自分が負けたとなれば、悔しさがこみ上げるのは必然である。
 もしも、という幻想が度々ボウを襲った。彼の恵まれない幼少の頃の思い出が、嘲笑うようにそれをかき消す。悪夢にうなされる度に、ボウはロンサを侮辱して気を晴らした。学者ごときが、というのが決まり文句であった。虚勢であることを、それは彼が一番良く知っていた。また軍の戦略会議の席に、今までロンサを呼んだことは無かった。ボウは軍人としての自分の才能に自信を持っていたし、ロンサに自分を超える発言はできまい、されてたまるか、という意地があったからだ。
 だが、今日はそれ以上に作戦の成功の方が重要であったので、止む無く彼を列席させた。それも右に二人を挟むばかりの所に。ボウは自分に言い聞かせた。ロンサごときでどうこう言っている場合ではない。いい奴だろうが、悪い奴だろうが、この国中の主要な権力、頭脳を仲間にして、この大陸を乗っ取ってみせる。ボウはそう考えていた。
 会議は終わった。小さなざわめきと、がたがたと椅子を動かす音がし始める。フジルは手に取った書類にもう一度目を通している。そこへ肩をぽんと叩いて、
「フジル、久しぶりだな」
と白い歯を見せて笑ったのが、ナト=コミュ小将である。少々小柄だが、筋肉質の男ナトは、士官学校時代の学友で、今はダバの一番の右腕として活躍している。隣の椅子を引っ張り出すとがたんと乱暴に腰を掛け、にこにことした顔で話してきた。
「娘さん、リィナだっけ?元気かい」
「ああ、相変わらずおっちょこちょいだ」
「ははは、そいつは良かった」
 大きな声で笑うと、ナトはぽんぽんとフジルの肩を叩いた。そしてその手を回して、フジルの頭を手元に近づけた。
「どう思う?」
「え?」
ナトは小声で話しながら顎で向こうを指した。フジルが見ると、奥でボウとロンサが会話している。ボウが口髭をいじったり、ロンサが高笑いするのが分かった。それはまさしく奇妙な光景である。
「あの口髭親父がじじい相手に笑いながら話してるんだぜ。信じられねえ」
「そうかな」
フジルは、ナトの臭い口を押し退けながら言った。
「ボウの右の目が引きつってる」
「ああ、本当だ。ぴくぴくしてるな。あれは明らかに感情を抑えていることへの反動だ。それに対して、ロンサじじいのあの挑発的な態度。これは面白い」
「微妙なバランスだな」
「ああ、異常なテンションだ。いつプツリといってもおかしくねえ」
そう言って、ナトはまた肩をぽんぽんと叩いた。
「ところで……」
ナトは椅子をぐいと引っ張ると、フジルの耳に臭い口を近づけた。
「この戦争、誰が勝つと思う?」
フジルの心臓が止まった。同時に大会議室の扉の向こうから、人を呼ぶ声がした。ダバがナトを呼ぶ声である。
「ちぇっ」
とナトは舌鼓を打った。それからまた、にこにこと笑って、
「じゃあ、また会う日まで」
と、軽く敬礼しながら席を立った。
 フジルは身震いした。疎外感。ナトが小将になって、もう半年は裕に経った。本来ならば自分がいた地位を、今はナトがそこにいる。学友時代から苦楽を共にしてきたつもりだった。否、ひょっとするとそれは、常に自分が前にいたという優越感からくる、余裕だったのかも知れない。いつのまにか立場が逆転してしまったことを、フジルは無念に思った。
 フジルは悔しくてならない。それは負けていることへの悔しさではなく、折角ライバルがいるのに、自分に戦う意欲が無いことへの悔しさである。だから、疎外感を受けるのかも知れない。軍部に於いて、恐らくただ一人であろう。フジルだけが、何の向上心も無い日々を過ごしていた。
 ふと柱時計をみると、日付が替わって大分過ぎていた。とんとんと書類をまとめ、フジルはゆっくりと席を立った。少しずつ静かになる大会議室を出ると、しんとした長い廊下が続いている。赤い絨毯が妙に気味の悪い暗い廊下だった。絨毯は靴音を吸い込む。フジルは、闇の中へ単身、乗り込んでいくような淋しさに襲われた。

 その頃、娘リィナは床に入っていた。風がひっきりなしに窓を揺らすので、よく眠れない。それとも、まだ鼓動が落ち着かないのはトトのせいなのか。リィナは、昔ニタから聴かされた子守歌を口ずさんだ。

  小さい小さい花の娘は つぼみのままなら美しかろうに
  風に若葉を揺らしていれば 惚れる男も多かろうに
  娘が花を咲かせる訳は 惚れた男のためだろうに
  大粒の涙の雨を浴びて 娘のつぼみが花開く

 口ずさんだつもりが、こと歌となると力の入るリィナのことで、余計に目が冴えてしまった。寝返りをうって机の上を見た。あの黒い石が置いてある。
「悔しいなあ」
とリィナは呟いた。明日、会う約束でもしておけば良かった。もう二度と会うことは無いかも知れない。先刻までの夢見心地の気分は、すっかり冷めてしまった。ああ、私は悲劇のヒロインなのね、とまた絵本の台詞を繰り返すばかりだった。

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