ボウ=ダウカはバカサ城の長く暗い廊下を渡り、その端にある書斎に入った。
乱雑な机の上のランプに灯をともし、軽くその周りの書類を払い退けると、そこに書類を投げ置いた。灯は、机の上を僅かに照らして揺れる。椅子に深く腰掛け、ボウは振り返った。扉の横には五つの勲章と、その横には賞状が三枚程並んでいる。その中でも取り分け、色褪せた一枚の賞状を見つめて、ボウはくくと笑った。
……十九年前の秋、小作人ダウカの一家が住むナグレーブル地方を大きな竜巻が襲い、大地主に納める筈の作物を全て奪って去った。ツニ=ダウカは大地主に土下座し、縋るようにして情けを乞うた。方便やら、誠心誠意の全てを尽くしたが、それだけでは足りない。大地主の要求は、夫婦にとって断腸の思いであった。
やっと言葉を覚え始めたばかりの、初子ボウを所望されたのだ。
名士、モクノニ=メレは百人程の小作人と千匹程の奴隷を抱える大地主だった。馬車は前日の晩から走り通して、早朝にやっとその小作人を住まわせている納屋に着いた。或る、平凡な冬の日のことである。
朝霧の立ち篭める丘に一台の馬車が見えると、父ツニは息子の肩を押した。振り返り、何が起こるか分からない不安な顔を見せたが、ツニは前をじっと見据えたままで、幼い息子と視線を合わせようとはしない。その厳しい視線を追うとその先に、ぶくぶくと転がりそうに太った男と、その後ろからピンクの服を着た小さな女の子が歩いて来るのが見えた。
ツニはもう一度、息子の背中を突き飛ばした。よろけながらまた振り向くと、ツニは深々と頭を下げていた。女の子が駆け寄って来る音と、声が聞こえた。
「これと遊んでいいの?」
大きな瞳の女の子、アマニ=メレは、ボウよりも十三ヵ月程早く生まれただけの、同じ歳の子である。アマニはしげしげとボウを眺め、突然その顔に平手打ちを食らわせた。よろけて呆然とする顔を指して、アマニはけたけたと笑った。
「面白ぉい」
アマニが再び右手を振りかざしたので、慌てて避けようと後退りしたが、その体を後から父が、ぐっと押さえていた。アマニの右手が、再び頬を弾く。
それが、初めて味わった父以外の人からの衝撃だった。
ツニは息子をかばう様子を見せず、
「よろしくお願いします」
と、丸い男に向かって頭を倒した。
息子は、父の声が微かに震えていて、いつもの快活さに欠けていたことに気付ける程、成長していなかった。目の前で次から次へと起こる事件と、頬の痛みが思考を遮り、気付けば、朝霧の中へ我が家が吸い込まれて行くのを黙って見ていた。
大地主の屋敷は、門を潜ってからも広い。背の低い木々の上の、あちこちで赤や青の屋根が覗く。建物の中では所々で灯りが揺れている。森の獣の、疑心に満ちた眼光のようだった。馬車を降りると、夜の淋しさに似た寒さが瞬時に体を包む。執事、ネグロットゥ=ザルダグが言った。
「お嬢様が、お前のことを気に入ってらっしゃるようだから、本来ならば奴隷小屋に入れるところを、特別にお嬢様の獣小屋へ入れてやる。勘違いしないうちに言っておくが、本来ならば奴隷であるところのお前を、特別にお嬢様のペットとして扱ってやるのだ」
既に夕方の餌の時間は過ぎていた。餌の時間以外の飲食は厳禁なのだが、色白の顔が功を奏したのか、今朝から何も食べていないことも同情を惹き、この晩だけは召し使い達の食事に付き合うことを許された。召し使いの婦人達の目は、哀れみに満ちていた。わざわざ食事の盛り付けも、彼女達より多くなっていた。それに気付かない程幼くもなかったが、空腹は理性を凌ぎ、流し込むように口を付けさせた。その姿を見て、所々に目頭を熱くする召し使いもいた。
「決して、誰のことも恨んでは駄目。この世の中が悪いのだから。この時代がね」
そして奇妙な生活が始まった。獣と共に餌を食らい、昼迄は畑仕事に借り出され、アマニが学校から帰ってくると庭に呼ばれて遊び相手となる。最初はアマニの質問に「はい」と「いいえ」で答えるくらいしかできなかったが、彼女の仕草が可愛い瞬間があると、笑顔を見せることも自然にできるようになっていった。モクノニ様やネグロットゥ執事の見ていない時にアマニは、学校の教科書を持ってきて色々なことを教えてくれた。本を読みなさいと、煉瓦程もある分厚い本を渡されて、夜の月明かりでそれを読み終えて、次の日に感想を述べるのが日課となった。例え、日中の畑仕事でくたくたでも必ず読み干した。
畑仕事といっても、馬や牛と一緒に土を掘り起こして石を取り除くといったものがほとんどだった。それでも奴隷達よりも待遇が良かったらしく、直射日光の中で土に足を乗せて石取りをすることは無い。河辺の石を取りながら、小川を走る一筋の風に、しばし腕を休めたりもした。奴隷ならばすかさず鞭が飛ぶところを、監視人は何故か打ってはこなかった。
それが奴隷との間に、大きな隙間を描いたのだろう。奴隷達はこちらに白い目を向け、遂には一度も、声を掛けてくれなかった。
二年と二十二ヵ月が過ぎ、三度めの冬の気配に、ナグレーブルの地が身震いをした。容赦無く吹き付けてくる西からの海風が、この二、三日は特にひどかったと思ったら、ところがあの日はぴたりと止んだのだった。
この時季になると畑仕事は無く、奴隷達は山へ薪を採りに行かされる。その日、彼らの雰囲気がいつもと違ったのを覚えている。だが、例によって彼らは口を聞いてくれないので、何が起ころうとしているか分からなかった。いつも通り昼まで仕事をすると、山を下りてアマニに会いに行った。
アマニは美しい娘になっていた。この頃になると、こちらから彼女に声を掛けることもできた。アマニが振り返ると、肩まである金色の髪が揺れる。二人は、執事の目の届かない、庭園の大木の陰に寄り添って座った。その日の日課は、足早に過ぎる雲の群れを眺め続けることだった。人生の中で数少ない、素敵な時間が流れた。ネグロットゥの目に怯えていたことと、二人の立場に上下が在ったことを除けば。
その日の夕刻だった。いつものようにネグロットゥは餌を配り終え、獣小屋を出ようとしたその足を反転させた。扉の向こうの赤すぎる夕焼けが、薄暗い小屋の真ん中に立つネグロットゥを背中から照らす。視線がこちらを向いているのが僅かに分かった。
「これは独り言だ。俺はお前が嫌いだ。お前が、お嬢様の笑顔を独り占めできるのが、許せない。俺はお嬢様のことならば何でも知っている、お嬢様が美しくなられた理由も。お嬢様の笑顔さえもペットに奪われた、俺の悔しさなど分かりもしないだろうが、だが、俺にも誇りがある。俺はお嬢様をお守りすると誓った身だ。だから、だから止むを得ずお前を助ける。俺はここにうっかり檻の鍵を落とすが、誰も取りには来ない。お前はここを出て裏の山へ逃げ込め。その頃、ここでは奴隷達の反乱が起こるだろう。俺はアマニお嬢様を連れて必ず、それまでに逃げ出す。だからお前も生きろ。そして、お嬢様と逃げろ」
ネグロットゥは深く息を吐いた。逆光のため、その表情は分からなかったが、
「生き延びろ」
と、彼は繰り返して後ろを向いた。そして、しっかりした足取りで、夕日に溶けるように小屋を出た。
「生きろ」と言った。ネグロットゥが、何故?
とりあえず、信じる他無い。逃げよう。
月は、無情に冷たい光を放っている。遥か果てまで広がるモクノニの敷地の、南方にそびえる山を照らす月明かり、その下を走った。振り返り、立ち止まり、震えを覚えて、また走った。しばらくして屋敷の方から、おおという轟きと共に炎が上がるのを見ると、ごくりと唾を呑んだ。山腹の木々の隙間からでも、屋敷を赤いものが呑み込む様子が見えた。あの力は、凄いものだろう。恐らくは、皆が恐れていたモクノニの権力よりも、奴隷達の、人間としての怒りの方が強いのだ。地響きがした。怒りの震動。
その時突然、背中が激痛に襲われ、堪らず倒れた。手探りで、背中に刺さっていたもの、これは矢だ!その矢を引き抜き、霞んだ目を懲らして振り向くと、そこには二匹の奴隷の姿があった。
「これ、何?」
「分かる。これ、ペット。娘の仲間。これ、敵」
奴隷達の目は光っていた。全く謂れの無い怒りだった。誤解を解かねば、だが、奴隷達は既に興奮している。獣に追われる手負いの虫は、慣れない山道を必死で突き進んだ。
追われる。走った。もう何百メトンも進んだだろうか。ぐるぐると同じ所を巡っているように、単調な風景を幾度も通り抜けた。ふと、小道の脇から新たな追っ手が飛び出したので、押されるように反対側の森へ逃げ込もうとしたその瞬間……
ボウは我に返った。そっと目を開けると先刻の賞状は、少しも変化せずにそこにある。あれからもう、十五年が過ぎた。そう、自分に言い聞かせて口髭を撫でた。
あの事件、「レグナーブル事件」はメルティーヌ王国史上に残る大きな事件であった。反乱分子の数は千を超え、これの鎮圧に当たった軍の死傷者も八百人を数えた。出動した部隊は第二、三、九と十二師団であったが、このうち、十二師団の名声だけが、国中に広まったこともこの事件の特徴であった。捕らえられた奴隷の総数九百七十七匹中、五百三十八匹は十二師団が捕らえたもので、そのうち心臓が動いていたものが八十二匹だけだった。このことから十二師団長パシャール=モルゴ、後のパシャール=メール=ティマ国王の名が、一気に国中に広まったのだ。
ところがそれは、ボウの初めての手柄だった。巧くパシャールを制御する方法を得たボウは、彼の地位を利用して、彼の右腕のふりをして、そしてそれから今日の地位を得たのだった。
……その時、パシャールは初め、獣が屍を食らっているのかと思ったという。暗闇の山道で、手元のランプの灯を頼りによく目を懲らして前方を見やると、一人の少年が立っていて、その周りには木々の枯れ逝く様子を真似るように、奴隷達の肉片が散らばっていた。数えることもできない程に手足は千切れ、腸が飛び、葉の無い枝に串刺しにされている。殺し屋パシャールも流石に、嘔吐感を覚えずにいられなかった。
少年は、一人の少女を抱き抱えていた。見るからに貴族の娘と分かる寝巻き姿の、その片胸に大きな穴が開いている。槍の跡らしい。
少年は、死人のように美しい白い顔であった。パシャールの震える手が握るランプの灯が、その顔を揺らす。遠くを見るような目が笑っている。血の赤が、少年の顔や体に模様を付けていた。腸の破片が所々に飾られ、足元はくるぶしまで血の池に浸かっている。本当に、死人のようであった。
少年は、美しい娘の胸に何度も触れた。しかし、穴は塞がらない。白目を向き、口元から黒ずんだ血を垂らす娘は、少年に肉体を預けたまま動かなかった。少年は娘をぐっと抱き寄せると、その冷たい唇に口付け、胸の穴をかばうように体を包み、
「敵は取るよ」
と繰り返した。何度も繰り返した……
ボウは思い出したように、立ち上がると奥のクローゼットを開けた。ぎっしりと並ぶ軍服の、暗い色彩の真ん中を割るようにして、その奥にある扉を開けた。ひやりとした空気の中に、干涸らびた娘の肉体がただ呆然と立っている。腐敗することも無く、肉体は残されている。透き通る程に白かった筈の肌は、木の皮のように堅くなっていた。水分の抜けた腕や足も棒のように堅く細くなって、軍服を真似るように静かだ。かつてはふくよかであった頬もこけ、金の頭髪も落ち、かつての美貌の欠片すら感じられない肉体は、全裸にされているにも関わらず、見るものに恐怖を与える程であった。
ボウは、その胸に大きな穴を開けたミイラをそっと両手で包み込み、頬を寄せた。