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 ……一年前のフジル=ティトルには、ゴル=ニチバで骨を埋める覚悟すらあったのだ。
 メルギッチ軍のボウガン部隊は戦局をいいように動かし、対するメルティーヌ軍は日々、敗戦の色を濃くした。いよいよもって弱り果てる自国軍、今日明日にでも敵国が止めを刺しに来るだろう。そこへ老学者ロンサ=テップの作戦が浮上した。
 軍の若手幹部はフジルも含めて皆、ロンサの発案した作戦と聞いて眉を潜めた。だが、事態は急を要していて、上層部が情けない程積極的にその作戦に縋る姿勢を見せたため、賛同する他無かった。作戦とは、彼と彼の弟子十八人に時間を与えてくれ、というものだった。
 会議は戦地ゴル=ニチバから千五百メトンも首都へ寄った所で行われ、作戦はゴル=ニチバに伝わるより先に実行されることになった。情報洩れを避けるためにも作戦はすぐに実行せねばならないと、ロンサは執拗に唱えた。願わくば、今夜のうちにでも準備を進めて、夜明けを待たずに行いたい、と。
 次の日の朝早く、ロンサは年寄りの大臣や軍部を叩き起こして馬車に乗せた。馬車はゴル=ニチバへと向かった。道中、ロンサとその弟子達は、馬車に乗る人々に奇妙な形のマスクを手渡した。鼻と口を覆う、お碗の形の大きなマスクだった。
 あと八百メトンも進めばゴル=ニチバに着く所で、ロンサは空を見上げて、にやりと笑い、馬を止めてここからは歩けと言った。年寄りの大臣達が、八百メトンも歩けと言うのか、と憤怒した。確かに腹の突っ張った年寄り共に、この道程を歩けというのは少々無理がある、同行した兵士達もそう感じた。
 その時である。行く手から砂煙を揚げて突進してくる黒い群れがあった。慌てて一行は、左右に分かれて草叢に逸れた。馬は黒い群れの地響きに驚き、悲鳴を大きく天に吐いて、一行が来た道を逆に辿って逃げ去った。
 ゴル=ニチバからやってきたのは獣の群れだった。大小様々の獣達が、皆一様に狂気の目をひん向いたままで一行と擦れ違った。空を見上げれば鳥の群れが、振り返れば道の横を流れる大きな川にも大量の魚の群れが、どれも怯えや恐怖を超えた狂気の目で、ゴル=ニチバから逃げるように飛び出して来るではないか。更にその群れの中から突然、口から泡を吹くもの、白目を向くもの、転がり腹を見せるもの、痙攣を起こすものが、現れては砂煙や波間に消えた。群れが通り過ぎると、跡には獣の屍が絨毯のように広がった。
 ロンサはじっと事の成り行きを眺めていたが、その絨毯を間の当たりにした時、くくと顔中を皺だらけにして笑って、こう告げた。
「皆さん、マスクを取ってはいけませんよ」
 辺りを見回した。空気に、微かに色が付いているのが分かった。木々は妙に沈黙し、一行の足音ばかりが耳に付くようになった。ゴル=ニチバに近付くにつれ、足元の死体も、視界の汚れも増して、やがて道が全て死体で覆われる程にまでなると、一行は次第にその足元の死体を凝視するようになった。外傷の無いそれら、死体の中に人間の姿が現れ始めたのだ。
 一人の士官が突然、マスクを取り、一つの死体に走り寄った。
「おい!」
と、士官は死体の肩を掴んで持ち上げた。かつての部下を見付けたらしい。士官は死体を揺すった。その胸に耳を当て心音を聴いたり、人工呼吸をした。だが、それらが全て無駄だと分かると、ゆっくり立ち上がって一行を振り返った。
 一行は確かに、彼の目を見た。放心していたその目が、突然白くなったのを間の当たりにしたのだった。
「だから言ったのです。マスクを取ってはいけません、と」
ロンサは突き離すように言った。士官は口と鼻から泡を噴いて、倒れた。一行はそれを見届けると、足早にそこを離れ、そしてこう予想した。あの士官が立ち上がって、一行に追い付くなどということは無いだろう、と。
「バケツ一杯分の微生物だったのですが、空気中を漂って生物の体内に侵入すると、血液に乗って体中に行き渡り、爆発的にその数を殖やします。微生物には敵、味方の区別などありませんから、先程のような犠牲も止む無く生まれました。ですが、味方の被害七十に対して、敵は勿論全滅して五百九十になります」
「味方も全滅なのか?」
「既に我が軍は壊滅状態でした。それに、前線にいる部隊に作戦を連絡しようとすれば、情報漏れの虞 も生まれます。それよりも、メルギッチの最新兵器を携えた先鋭部隊を全滅させたことを評価していただきたい」
 フジルは愕然とした。何故なら、彼の部隊は前線で唯一、ほぼ無傷で戦っている最中であったからだ。
「私の部隊もか?」
と問うと、ダバ=ガジャ中将が代わりに答えた。
「お前の部隊が、だ」
 後で分かったことだが、ダバはこの時初めて、フジルの師団が前線に置かれた理由に気付いたという。味方の一個小隊の中では一番小さく、しかも敵を惹き付けられる程の精鋭が揃っているのは、第五師団をおいて他に無かった。
「フジル君、君の部隊は残らず、名誉ある死を遂げた。君の采配は全く見事であった。勲章に値するだろう。我々の遠く及ばない、見事な戦術だったよ」
そう言い放って、ロンサは、笑っているではないか。フジルの拳が震えた。それを認めたダバはすかさず、フジルの肩を掴んだ。
「そうするしか、あるまい」
一同、それに倣うように頷いた。
 茶番は成立した。これが、現在まで広くその名を知られることになる英雄、フジル=ティトルの誕生である。
 英雄は見回した。この瓦礫と死体の山のどこかに、かつて共に生き延びるために、戦った友がいる。殺したのだ。味方が殺したのだ。後ろから、刺し殺したのだ。語ることもできなくなった友に、語る言葉も無かった。
 だが、それだけがフジルの不幸ではなかった。
 その日の夜の出来事だった。普段はそれほど飲む方ではないフジルも、この日ばかりは軍人酒場の狂った熱気に、身を投じてしまいたかった。だから、首都に戻り着いたフジルは、まっすぐに酒場へ向かった。想像どおり、狂った酒と快楽の世界が、快くフジルを迎えてくれる。フジルはカウンターで一人、ワインを口にした。
「ゴル=ニチバで……」
という声がふと耳に入った時、フジルの手には二杯目のワインがあった。後ろのテーブルに着いていた、二人の若い将校の会話が聞こえてきたのだ。
「味方の慰問団が宿を取っていたんだって、全滅だってよ」
「本当かい。ああ、また夜が白けるぜ、ったく」
なるほど、「魔法の薬」はそんな人達も巻き添えにしたのか、とフジルは一気にワインを飲み乾して、呟いた。慰問団とは、名に実は無く、娼婦の集団のことであった。兵士達の性欲を満たすためにのみ、存在する集団だ。
「可愛い女がいたよな。サマとか、フェーヌとか」
「そうだ、年増だけどシャラってのも」
「そうそう、長い茶色の髪の。大人しくて、いい女だった。あれは旦那がいたみたいだったけどな」
「旦那も気の毒にな。いい体してたのに、死んじゃったか。ウジの湧いた体は、抱きたくないしなあ」
「そうそう、俺ね、あの女の似顔絵を町で描かせて、今でもほら、胸にしまって」
 フジルには、長い茶色の髪の、大人しいシャラという女に、心当たりがあった。その男達の視線を集めている紙へ、脇の方からそっと目をやり、ああ、と声を上げた。
「あっ、団長殿もこの女を知っていますか」
 非常によく似ていると思った。軍事工場で働いている筈の妻、シャラに、非常によく似ていると思った。長い髪も、切れ長の眉も、頬骨の当たりのほくろも。
 娼婦。
 ゴル=ニチバで死んだ。
 誰が、殺した?
 妻を、国家が、辱めて、殺した……

 長い眠りから覚めたフジルは、狭く息苦しい馬車の中で背伸びをした。首都バカサから更に南へ走っている馬車の中で、フジルは先刻の悪夢を思い出して、頭を軽く振った。
 悪夢だったら良かったのだ。全てが夢であったならば、フジルはこんな狂気の中を彷徨う必要も無かったのだ。凍れる過去。フジルは、自分はひょっとするとあの時に死んでしまっていて、今を生きているように見えるがこれも皆、凍れる過去の内側なのではないかと思った。

 リィナは背伸びをした。いつもと変わらぬ朝を、いつも通りに迎えることができた。そう、リィナは呟いた。それからリィナは、一人の朝食を取った。スープを飲んでは扉を見て、パンをくわえたまま何度も外に目をやり、父の姿を捜したが、見当たらない。今までなら、こんなに淋しいと思うことは無かった。戦争や会議の度に、父は家に帰って来られずに朝を迎えるのだ。
 母は、こんな気怠い朝でも、自分よりも先に起きて、温かいスープを用意してくれた。生煮えの芋と、大きすぎる人参の入ったスープを食べながら、急にそんなことを思い出した。
「お父さん、覚えてる?」
と、呟いてみる。でも、返事など、ある筈も無かった。
 きっと、必ず、父は忘れないでいてくれる。今日は約束の日。
 気を取り直すように、いそいそと部屋に戻ったリィナの目を、突然、突き刺す光があった。目をかばい、そっと見やる。机の上で朝日に輝く物があった。昨晩の石だ。
 リィナはそれを手に取って、傾けてみた。もう一度、傾けてみた。その度に、石の表面は太陽の光を受けて七色に輝く。これは大発見!小さな太陽のように、七色に輝く黒い石だ。
 リィナの胸の中の霧が晴れていくようだった。
「トトの忘れ物」
と、リィナは歌うように呟きながら、釘で丁寧に穴を一つ空けて、そこに紐を通した。首から提げてみる。揺れる度に、黒い表面が違う色で輝いた。リィナは、そのまま踊るようにポーズを取った。今度は帽子を被って、
「お前のお陰だよ。お前が、風に飛ばされたお陰だよ」
と、繰り返した。
 しばらくして、学校へ行かねばならないことに気付き、リィナは踊るようにそのまま家を出た。
 淋しくなんかない。だって、今日は、誕生日だから。

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