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 メルギッチ帝国、ジノス=メール=ギチ皇帝は、じっと海を眺めていた。窓の下から遠く、空に触れるまで広がる北の海は、いつもと変わらぬ荒々しい表情を見せる。ここ二、三日の天気が不気味な程心地良く、ジノス皇帝は洗われたように体調が良かった。そして、海を眺めては、その向こう側にあるだろう、未知なる世界へ思いを馳せた。
「我々は愚かだ」
静かな笑みを浮かべた後で、ジノス皇帝はそう呟いてみた。しんとした部屋の空気が、それに答えるようだった。
 おごる訳ではなく、純粋に、ジノス皇帝にとって、人間は愚かであった。人が人を差別するための「権力」というもの、それによって引き裂かれたこの大陸。先達の愚行。気に触れているとしか思えぬ、パシャール王国の実力者ボウ=ダウカ。利用される、パシャール国王。自己の目的のためだけに国家を愚弄して、利用しようとする学者、ロンサ=テップ。自分に敵対する者の、全てが愚かに見える。ボウの言葉に乗せられ、権力に怯え、果て無き従属の日々に甘んじ始めたメルティーヌの民も、愚かだ。
「私が、正義だ」
と、ジノスは呟いた。
 ふと、手を見た。今にも折れそうな枝を、皺くちゃの皮が包んでいるようだ。そのままジノスは、自分の生きた三十数年を、指折りながら振り返った。
 永遠など無いのだ。若さをくれ。死なない術を教えてくれ。全てを思い通りにする術が欲しい。だが、それが分からぬのだ。故に、我々は愚かな争いを続けるのだ。生き方を求めているのではない。死に様を飾りたいのだ。
「神の力」を、メルティーヌ王国に渡してはならないのだ。メルギッチ帝国を、私を頼って生きる人々を守らねばならぬのだ。農民を、漁民を、メルティーヌ王国から逃れた奴隷と呼ばれた人々を守らねばならぬのだ。
 もしも、永遠の命があれば、とばかり思うようになった。その頃から、「神の力」を求めるようになったのだろうか……。

 法律の教科書は少し小さめで、リィナの寝顔を隠す程、高さが無い。先生はいつものように、出かかった腹を揺らしながらリィナの脇に寄り、こんと教科書の背表紙で叩き起こした。
 寝ぼけた顔を持ち上げると、教室のそこかしこでくすくすと笑う声がする。でも、リィナにとってはいつものことだった。
「読んでみろ」
と言われて教科書を持ち上げてみると、リィナはその重さに驚いた。
「えー、と、と、と……」
「次のページ」
隣からの声。またどこかでくすくすという笑い。
「国家を守る為の法律。私達、国民と国家の安寧の為に、様々な法律があり、私達はそれを守ることで平和で美しい王国に住むことができるのです……」
 教科書の言葉はリィナにとって、意味の分からない記号のようなものだった。ニタの話してくれる昔話の方が、数段に楽しい。でも、チャルが言うには、教科書の偉い人の言葉を読むと、国のためにがんばろうという気になるのだそうだ。リィナは、まだそんな気持ちになったことがないので、偉人伝になると目を輝かせるチャルを羨ましく思うのだった。
 そのチャルは、今日から五日の公休だ。青少年隊入隊で、訓練があるのだそうだ。でも、今日行われる入隊式は午後からだと言っていたので、きっと今頃はゲンツの所へでもいるのだろう。
「……つまりだ、武器を持っていると捕まりますよ、というのは、国王陛下に忠誠を誓う意味もあるのです。兵隊さんが武器を持っているのは、兵隊さんは国王と我々を憎きメルギッチ帝国から守るための選ばれた集団だからなのです。ですから、決してその刃先はこちらを向くことは無く、……」
 リィナの耳には、先生の有り難い話は全く届いていない。チャルとゲンツは、今頃何を話していることやら。この授業が終わったら、今日も遊びに行こう。リィナはふふ、と独り笑いながらまた、うとうとと頭を揺らし始めた。

 メルティーヌ王国、ノース山脈の麓。美しいサヌメニア川の流れと、それに抱かれた広大な高原。その片隅に、全く風景に溶け込むことのできない建物達が、こぢんまりと並んでいる。工場の煙突と、倉庫の群れと、そこから離れた敷地の隅に、丸太小屋が一つあった。
 小屋の扉の把手に錆び付いた鍵を差し込み廻し、ナト=コミュ小将がゆっくりと扉を開けた。ダバ=ガジャ中将がその後に続く。立て付けの悪い扉を、ナトが一生懸命閉めている間に、ダバは机の上の書類に目を通し始めた。やっとの思いで扉を戻し、一息吐いてからナトは、机の向こうに腰掛けているダバを振り返った。
 ダバは書類を眺めては、次々と机の上に投げた。どうやら報告書や始末書ばかりのようだ。ナトは、恐らく弾かれた書類の処理は全部こっちに回ってくるだろう、悲観的な見解に溜め息を零し、傍らにあった椅子に腰掛けた。
「お、青少年隊の受験結果だ」
と言って、ダバは手を止めた。出来のいい者は早めに目を付けたいのだが、最近はこれといって際立った人材は無かった、だが。
 ナトは、ダバの手が止まってからしばらく経ったのに気付いた。禿げかかった頭の下で、ぴくりと眉が釣り上がっている。
「何かありましたか?」
「筆記、三ヶ目合計二百九十六点。乗馬、満点。柔術、性別考慮……?、でも合格点だな、これは」
「女性ですか……?」
女性の隊員はこれまでにも何人かいたが、それ程芳しくはなかった。ナトは、素直に驚いてしまった。
「弓道、おお、満点だ。初めてじゃないのか?」
ダバは頭をもたげて、ナトを見やった。ナトはそれに応えてすぐに立ち上がり、棚を開けて、書類を開いた。ぱらりぱらりと、やや色褪せた紙をめくる手が程無くして止まった。
「否、一人いますね。ゲンツ=ヤタタ……」
「ゲンツ?……聞いたことがあるな」
 ダバはしばらく考えていたが、諦めたらしく書類に再び目を戻した。
「ええと、チャル=モノモ。八歳。父、ジェンヒ。母、ニパナ。ノース第十二平民学校最長組首席……、思い出した!」
その突然の声に、ナトは飛び上がりそうになった。
「その子が、何か……?」
「違う、そっちの子だ!ゲンツだ!何故、その書類がここにあるんだ?」

 ゲンツが目蓋を上げると、チャルが枕元で肘を付いて外を眺めていた。目線を辿ると、なるほど、今日も外はいい天気だ。目が痛くなる程青い空が、チャルの瞳の奥まで広がっている。
 チャルは、ゲンツが起きたことに気付くとすぐに、青少年隊の試験に合格したことを告げた。胸を張ったり、手振り身振りで試験の様子を伝えたりするチャルを、ゲンツはずっと眺めている。
「……元気そうだね」
「うん」
瞬間、チャルは思わず息を殺した。
「どうしたの?その声……」
「え?ああ。時々、咽喉が辛くなると、こんな声に……」
 風の音のようだ、とチャルは思った。ゲンツは何ともないように言って笑っているが、チャルにとっては、そんな些細なことが恐かった。すぐにでも消えてしまいそうな蝋燭の火みたいだ。チャルは、その大きな目を潤ませた。
「大丈夫だよ」
と、ゲンツは左手を出して、チャルの右の頬に触れた。
 チャルは、その手の冷たさを感じた。この手に、血は流れているのかしら、もしかしてこの手は、精巧に作られた人形の手ではないのかしら。堪らず、チャルは両手でそれを押さえた。右の目から零れたものが、チャルの細い指先を擦り抜けて、ゲンツの手に触れるのが分かる。ゲンツの手は、確かにそれに反応してぴくりと動いた。
「大丈夫だよ」
ゲンツは繰り返した。
「急に、いなくなったりしないから」
「本当?」
チャルも、風のような声を真似るように、言った。
「俺が、約束を破ったことがあるかい?」
「……たくさん」
ゲンツは、ふふと笑ってチャルの頭を自分の胸に押し付けた。ポニーテールが揺れた。
「じゃあ、今度こそ、守るよ」
チャルは、鼻をぐずらせて泣いた。泣きながら、笑った。
 嬉しかった。信じたいことを、信じさせてくれることが嬉しかった。大切なことは、夢が叶うとか、思ったとおりにことが運ぶとか、そんなことではなくて、明日を信じて、今日を生きていけることだった。チャルは、ゲンツの乾いた唇にくちづけた。これが大切なことなのよ、と何度も心で呟きながら。
 その時、廊下ではリィナが、来た道を逆に歩き始めていた。

 メルティーヌ王国バカサ城下、ジ=エルクの町の繁華街にある食堂で、フジルは昼食をとっていた。
 スプーンを持ち上げる度に、目蓋が下りる。目蓋を持ち上げると、今度は腕が下がった。食堂の女主人が、厨房から心配そうに顔を出している。
「軍人さん、のんびりしていきな。なにも、眠いのに飯を詰め込まんでも、ええよ」
フジルは片手を挙げて答えた。
「いやいや、宮仕えは辛いんだよ。働いても、働いても、限りが無い」
そう言って笑うと、今度は勢いを付けて、一気に食事を口に詰めた。
 フジルはこれから夕刻までかけて、再びノース地方まで戻らねばならない。帰りの馬車は、およそ三十台。荷台にはぎっしりと、ロンサの発明した兵器が載せてある。
 帰路の半日間は、食事をとる余裕など無い。というのも、道の整備が追い付かない地域が延々と続き、馬車に座っているだけで酔う程だからだ。以前ナト=コミュが、いつものようにダバ中将におべっかを遣おうとして舌を噛んで、痛い、と言おうと大きく口を開けたせいで、もう一度舌を噛んだことがあった。
 食事を終えたフジルは、何か大事なことを忘れているような気がしてならなかった。おお、そうだ、リィナの誕生日だった。なんと言い訳しようか。まあいい、いつものように許してくれるだろう。それよりも、プレゼントを買わねばならんな。
 女主人に相談した。おしゃれなものがいいだろう、と言った。
 フジルは食堂を出て、繁華街をしばらく彷徨った。そして、怪しげなアクセサリーを店先にぶら下げているその横の、ふと目に入った鮮やかな青い色の帽子に足を止めた。

 死の町、ゴル=ニチバは大きな彫刻の祭りのようだ。大小様々の木と石の壁が、かつてそれが建物と呼ばれていたことを気付かせぬよう、息を止めて並べられている。霧に包まれたとも言い表せられぬ程に淀んだ空気は、押し潰され、潜み、地表に散る数々の彫刻を固めていた。その間を縫うように、一人の老人、ロンサが歩いている。
 その曲がった背中に、大きな鉄製の筒のようなものを一つ背負って、ロンサはいそいそと死の町を潜り抜けた。マスク越しに、足元を埋め尽くす肉の塊を眺めては、くくと笑う。素晴らしい、素晴らし過ぎるぞ、もはや元がどんな生物であったも分からぬ程に、「あの子達」は食い尽くしている、もっと食べろ、もっと広がれ、この大陸を「お前達」のものにしろ、思う存分暴れろ、力を示せ。
 神よ、見たまえ。この圧倒的な死を。素晴らしい。貴方が産み出した命を、人間の「産み出した」命が支配して、やがてそれは大陸をも支配するのだ。貴方の創った「人間」は愚かであったが、その「人間」の創った「この子達」は偉大だ。
 勝ったのだ。神よ、貴方に勝ったのだ。
 ロンサは、自分に残された僅かな命が燃え尽きる前に、「この子達」が地上を支配する姿が見られるのか、淋しくも思った。せめて、「この子達」が、大陸を支配するまで生きていたい、そう心底から願った。

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