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 帽子のつばから零れ落ちる、痛いくらいに眩しい太陽が、リィナを突き刺す。病院のある表通りから山へ向かう細い道に入ると、リィナをかばうように両脇から木の枝が伸びてきた。木漏れ陽は、リィナの足元に模様を着ける。もう何日も雨を忘れた空気が、匂う。
 木漏れ陽や木の枝は風に合わせて揺れて、まるでリィナに話し掛けているようだった。だが、リィナはそれに気付かなかった。
 ゲンツが言った言葉が、脳裏に焼き付いている。いなくなったりしない、いなくなったりしない。
「お母さん」
と呟いてリィナは、帽子のつばを両手で押さえた。遠くなっていくようで、淋しくて、肩を震わせた。
 お母さん、あの日、言ったよね。リィナに黙っていなくなったりしないわ、私が帰ってくるまで、お父さんの言うことを聞いて、いい子にしていてね、食事もちゃんと作るのよ、洗濯やお掃除も大変だろうけど、お父さんと二人できちんとやるのよ、お母さんが帰ってきた時にお部屋が汚れていたら、承知しないわよ、って。
 お父さん、誓ったよね。これからしばらくは、洗濯と掃除は交替でやろう、って。これからはお父さん、早く帰ってくるようにする、って。たまには自慢の料理も作ってあげる、いつかピクニックにでも行こう、裏庭に畑を作ろう、誕生日には、お母さんに会いに行こう、って。
 もしも、もう二度とゲンツに会えなかったら、どうしよう。お母さんに会えなかったら。もしも、もしも、もう皆と会えなくなったら、どうしよう。明日が見えない。昔は、夢見ることができた未来が、真っ暗なんだ。何故?もしも、もしも、もしも……。
 止めて!
 知りたくない。そんなこと、知りたくない。知らなくていい。例えば私は、お兄ちゃんのことを、これっぽっちも知らないから、お母さんがいつも流していた、あの涙の意味なんて分からない。けれどお母さんは、この手に触れている帽子は、母さんからの贈り物の帽子は、ほら、ここにちゃんとあるじゃない。それだけでいい。お母さん、これが、大切なことなのよ。
 息が切れてリィナは、自分が無意識のうちに走り出していたことに気付いた。急な坂道が目の前にあった。道を囲む木々の葉が増えて、緑の匂いとひやりとした空気が、リィナの頬を叩く。気が付いて見上げると、遠くにノーサ=タム山が、木々の枝に挟まれてその陰だけが見えた。風が山から森を抜けて、リィナの頬を叩く。母の手の温もりに似た、やさしい肌触りだった。

 年老いた鹿、ニタは木々の隙間からタムル湖畔を窺っていた。昨晩からそこに、一人の少年が野宿している。少年は、こんなに陽が高くなった今頃になって目覚め、大きなリュックにもたれながら、ぼうっと湖の波がたゆたうのを眺めていた。
 ニタは、匂いを嗅いだ。やはり、彼自身は危険な匂いではない。ただ、あの目がどうもいただけない。あれは、嘘や秘密を抱えている者の目だ。遠くを見ているのは、近くを見る勇気が無いからだ。今にも泣き出しそうな、そんな目だ。
 少年は、思い出したようにリュックを漁りだした。中から、一本の木の枝のような物を取り出した。ニタには、それが笛だと分からなかった。だが、その少年がそれを横にして口に宛い、零すように奏で出した旋律は、よくリィナが口ずさんでいた歌に似ていたことは気付いた。
 ニタは、目を閉じた。いつの間にか鳥達も歌を止めて、ただ、風の音と笛の旋律が湖畔に響いた。波も、小枝も、他の動物達も足音を忍ばせる。笛の音は美しく、切なく流れた。
 少年は唐突に、その旋律を止めた。酔うように聴いていたニタが、びっくりして目を開けた。少年は、森の端に立つ少女の姿を認めたのだった。
 リィナはうっとりと少年、トトを眺めていた。トトが頭をぺこりと下げるまで、リィナは口をあんぐりと開けたままだった。
「あ、こんにちは」
リィナは、とりあえずそんな言葉だけを零して、トトの傍へ寄った。トトは起立してリィナの来るのを黙って待った。
「いつからここへ来ていたんですか?」
「昨晩から」
「へえ」
リィナは、辺りを見回したりした。
「ということは、昨日、あれからここまで登って?」
「川に沿って登っていたら、ここまで」
「へえ」
トトは、笛を手の中で転がす。
「あの、笛、お上手ですね」
「ああ、小さい頃からこれと一緒にいたので」
「へえ」
 リィナはうつむいて指をいじり、一所懸命に次の質問を探した。何を聞いても、すぐに質問が終わってしまうのが、悔しい。
 こんな時はいつも、チャルが羨ましい。チャルのように、次から次へと言葉を交わしたい。でも、何故か言葉が浮かばない。言いたいことは、山程あるのよ。会えてよかった。もう一度、その笛を聴かせて。
 そんなリィナの願いを知ってか知らずか、トトは再び笛を口に当てた。
 トトは目を閉じて、神経を尖らすように奏で始めた。美しく、切ない旋律。再び湖畔は沈黙して、その旋律に浸った。
 笛の音色は、胸の奥を震わせるようだ。だから、リィナもつい、歌い出してしまった。

  小さい花の娘の夢は 失うものの無くなるとこで
  風に若葉を揺らした頃は 失うことも忘れたままで
  娘が花を咲かせた訳は 失うものも無くしたからで
  怒りの涙の雨を浴びて 娘のつぼみが花開く

 ところが、こと歌となると力の入ってしまうリィナは、しまいには湖畔いっぱいに響き渡る歌声を聞かせていた。一通り歌い終えてから我に帰ったリィナは、トトの顔も見られず、またうつむいた。トトも同時に笛を止めて、同じように立ち尽くしてしまった。
 風が二、三度、二人の体の間を擦り抜けた後で、リィナは恥ずかしそうに笑った。それを見ていたトトも、合わせて笑う。しばらく時を無駄遣いして、今度はもう少し大きな声で、二人は笑った。しばらくは、目を合わせるだけで笑った。
「それにしても、本当にトトの笛は上手だね」
「そう?」
「うん、この森のおしゃべりな鳥達が、歌を止めて聴き惚れていたんだもの」
そう言って、リィナは耳を澄ます仕草を見せた。トトも真似てみる。森の木々の隙間から鳥の声がする。
「誉めてる、トトのことを」
「え?」
「森の鳥達が、そう言っているの」
「君には、何を言っているのか分かるの?」
 トトはもう一度、リィナを真似て耳を澄ましてみたが、鳥の声は鳥の声以外の何でもない。トトが眉を潜めるのを見て、リィナはくすりと笑った。
「大昔ね、人間も、動物も、植物も皆、同じ言葉を話していたのよ」
「どんな?」
「ううん、とね」
リィナは、しばらく悩んだ。
「何て言ったらいいかな。そう、言っては駄目なの」
「言っては駄目?」
「うん、感じるの。心のね、ここの所で」
リィナは胸の当たりで手を動かした。
「深い、深い所で感じて、それを全身で出すの。動物達は皆、そうやって話をしているの。人間は、口のこの先の方だけで、何かを言おうとするでしょ?」
そう言って、今度は口を尖らせて、それを指した。
「人間は隠しごとをするから、動物達のように全身で話をする訳にはいかないんだって。口の先だけでたくさんの言葉を作ったんだって」
 トトは、しばらくリィナを眺めた。申し訳なさそうに頭を掻くリィナの話を、普通の人が聞けば笑ってしまうような話だが、トトはリィナの笑顔を信じた。
「全身で、……か」
「うん、ここで感じて」
 リィナがもう一度胸に触れた時、突き刺すような陽の光が胸元を光らせた。
「あれ?」
トトは、顔を近付けた。あの、黒い石がリィナの胸元を飾っていたのだ。
「あ、これ……。昨日、この石、落として行ったでしょ?」
「黒閃石……」
「こくせんせきっていうの?」
石はもう一度陽の光に煌めいた。トトは、思い掛けないものを見た目で、じっと眺める。石は、七色の光を二人の目の中で踊らせた。
 リィナははっとして、急に胸がときめいた。同時にトトも、顔を赤らめる。思い掛けず短くなった二人の目と目の距離に、当の二人が一番驚いていた。
 それから、太陽は急激に角度を変え始めた。ずっと森の奥から二人の様子を眺めていたニタは、馬鹿馬鹿しくなって、ねぐらへと引き返した。

 青少年隊の入隊式が行われたのは、ノース地方の軍需工場の中庭であった。
 中将であり、青少年隊の隊長であるダバが自分の書斎小屋を出た頃には、既に全隊員が整列を終えていた。ナト小将に急かされ、軍服の衿を留めながら会場に入ったダバは、まず新入隊員の顔を見渡した。
 隊員の列に向かい合わせるようにして、新入隊員は横一列に、といっても僅かに十人であるが、並んでいる。その、もっとも演壇に近い端の隊員、最も成績の良かった隊員、チャル=モノモを認めてから、ダバは壇上に登った。
「諸君」
その一声で、隊員の目が集まる。ダバはいつものように、まず全員の顔を見回した。
「ここに、同志十名を新たに迎えた。知っての通り、皆と同じ試験を通り、ここに晴れて我がメルティーヌ王国軍付属青少年隊隊員として仲間入りをした、共通の願いを持つ仲間である。大らかな心で向かえ、友となるよう、各人、努めてほしい」
ダバの敬礼に合わせて、会場中がざっと音を立てる。ダバは速やかに演壇を下りた。
 その間、チャルは凍り付いたように動けなかった。目の前に並ぶ数百の人達を皆、敵に回したような孤独感が襲う。目が集まる。もの言わぬ目が、チャルに刺さった。ただでさえ女性の隊員は珍しく、その女性が一番演壇に近い端に立っていることは、更にチャルを好奇の目の対象へと駆り立てた。それを、今更ながら実感したチャルは、柄にも無く弱気になった。
 助けて……。
 ふと、ゲンツの顔が思い出せなくなった。
 ぽんと、チャルの肩を叩く手があった。びくりと背筋を伸ばし、振り返るとそれはダバであった。
「後で、私の部屋へ来るように」
それだけ言って、ダバは去って行った。しばらく放心したチャルを、再び現実へ引き戻したのは、新入隊員代表の言葉を求める、司会の言葉であった。
 その言葉に、もう一人ぴくりと眉を動かした男がいた。彼は、青少年隊員の列の中に紛れながら、首を伸ばして壇上を窺った。角刈りの頭が並ぶその隙間から、ようやく演壇が覗く。
 彼、第七分隊長、ガジン=マインは必死に記憶の隅から探し始めた。壇上に登った女性に、見覚えは無い。だが、ポニーテールと大きな瞳、チャルという名、おお、思い出した。ガジンは、ぽんと手を叩いた。記憶の隅から、ゲンツ=ヤタタの名を引き上げてきたのだった。

 夕方になり、腹が空いて目の覚めたゲンツは、急に焦りを覚えた。
 左手を、もう一度、意識の淵から取り戻そう。はは、一体どうしたというのか、分かってはいるが分かりたくないぞ。掴む。もう一度、ゲンツは頭にその動作を思い浮かべた。腕を上げて、手首を少し捻る具合で、五つの指も折り曲げる。
 どうやって?
 しばらく経って、馬鹿馬鹿しくなってゲンツは笑った。同室する患者を寝たままの姿勢で呼び、先生を呼ぶように伝えて、また深く目を閉じた。
 ゲンツは、狸の夢を見た。
 幼い頃、夜な夜な畑を荒らす狸がいた。ゲンツと仲間達は協力して罠を張り、ついに真犯人を捕まえることに成功した。
 ゲンツは狸を引き摺り、家に戻ると父にそれを報告した。誉められたかった。父は、ところがじっと、狸を見つめたままだった。
 狸は、体中擦り傷だらけだった。ゲンツ達が付けた傷だった。怯えた目を見せる狸を、まともに見られなくなった。父は黙って、聞いた。どうするのだ?、と。
 狸を逃がしてやるのを見届けると、父はぽんと肩を叩いてくれた。
 痛かったんだ。あの父の手の重さ。
 この肩は、もう二度と上がらないのだ。

 タムル湖の畔の二人は、相変わらず愚にもつかぬ会話を交わしている。質問と、答えと、その返句に「へえ」だの、「ふうん」だのがあって、会話はまた中断する。
 そんな二人の間を、いつもよりも強く風が吹き抜けた。リィナが風の生まれた方角を見上げると、ノーサ=タム山の頂は暗い青の中に溶けている。いけない、もう帰らなくちゃ、リィナは立ち上がった。
「今日は誕生日なの」
「へえ、おめでとう」
えへへ、とリィナは照れ臭そうに頭を掻いて、そのまま、ゆっくりと後退りした。
「あの……」
と、トトが声を掛けた。期待していた訳でもないが、リィナは足を止めて、黙って、耳を澄まして言葉を待った。
「明日、……良かったら、町を案内してよ」
「うん」
リィナは元気よく返事をした。そして、大きく手を振った。
「また、明日」
 それからリィナは、物凄い勢いで家まで走った。嬉しくて、嬉しくて、吹き飛ばされそうなくらいだった。あした、また、あえる。
 お母さんに伝えたいことが、やっとできたみたい。お母さん、貴方の信じているものを、やっと私も掴めたみたいです。ねえ、聞いてよ。八歳になったのよ。あした、また、あえる。貴方が神様にお祈りをしている時間のように、大切なものをやっと掴めたみたいです。ねえ、聞いて。話したいことは、山程あるのよ。
 家には父はいなかった。暗く、静かに空気を揺らす部屋の、机の上に父の置き手紙がある。
 ごめん、リィナ。今日も帰られそうにない。でも、忘れていなかったよ、リィナ。八歳のお誕生日、おめでとう。
 その手紙の脇に、見たことのない青い帽子があった。

 チャルは夕食を早々に済ませて、制服姿のままでダバ中将の書斎小屋を訪れた。中では、ダバとナト小将が待っていた。促されて、二人の間に置かれた小さな椅子に腰掛けたチャルに、ダバが聞いた。
「何故、呼ばれたと思う」
「女だからでしょう」
その速答に、ダバは思わず声を出して笑った。
「おほん、失礼。君達、青少年隊員がここに呼ばれるのは、二つの場合がある。悪いことをした時と、いいことをした時だ」
「何もしていません」
「いやいや、納得がいったよ。少し疑っていたことを詫びるよ。このところ、いい人材に不足していたのに、突然歴代三位の成績で入隊されたものでな。無論、君がここに呼ばれたのは、いいことで、だ」
 チャルは深々と頭を下げ、礼を述べた。つねに動作がてきぱきしているのが、軍隊向きだな、とナトは横で思った。嫁にはしたくない、とも思った。
「明日の昼までに隊の配属が決まるのだが、君は第三分隊に配属されることになる。私の直属だ。最も苛酷な隊ではあるが、それだけに人選には殊の外、気を配っている。君は逸材だ。期待している。用件は、それだけだ」
 チャルはもう一度深く頭を下げた。立て付けの悪い扉をナトに開けてもらい、チャルは小屋を後にした。
 見上げると、星が辺りを埋め尽くしている。チャルは一度息を深く吸い込んで、それから宿舎を目指した。
 その脇道は工場裏を回るもので、反対側はすぐ森になっている。誰かが、チャルを呼び止めた。

 トトは、ずっと夜空を眺めていた。星が何か語り掛けているようで、気掛かりだった。胸の端に残るのは、リィナの笑顔ばかりだ。でも、ひょっとすると、もうこれ以上リィナには近付けないのかも知れないのだが。
 リィナは、この湖を満たす水のように、清らかだ。彼の知っていた世界の住人でないことは、すぐに分かる。或る意味で、動物達のように自然に生きていけるリィナを、羨ましいとも思った。だから、こんなにも胸が痛い。
 もしも許されるのなら、いっそこのまま、ここの住人になって、リィナの傍で暮らしたかった。がむしゃらに生き延びてきたこの短い人生を、トトは振り返って泣きそうになる。でも、まだ、迷路の出口が見つからない。明日の晩、使命を終えれば、すぐにまた旅立たねばならない。いつ終わると知れない、長い迷路だ。
 草むらに寝そべって、そんなことを思い耽っていたトトの顔を、一匹の鹿が覗き込んできた。別段、驚くことも無くトトは、その鹿の立派な二本の角を眺めた。
 鹿は幾度か、トトの首筋から胸にかけて、鼻を押し当てて匂った。それから、トトの鼻の先をぺろりと舐める。ずっとトトは、くすぐったいのを我慢して、その鹿のしたいがままにされた。その時、何かがトトの耳元で囁いた。
「悪魔」
トトは、耳を疑った。今、確かに、この鹿がそう言ったように聞こえたのだ。

 リィナは、ベッドの上で大声で泣いた。次から次へと零れる涙を、リィナは抑えられなかった。枕を抱き締め、何度も母を呼ぶ。返事が無い。リィナは今度は手探りで、傍らにあった白い帽子を捕まえて、くしゃくしゃになる程に抱き締めた
 ぼろぼろの白い帽子。染みの一つにも思い出が、詰まっている帽子。たった一つ、お母さんがくれたもの。お母さんの分身。
 これじゃなかったの?違うの?何が足りないの?何がいけないの?捕まえられないの。分からないの。答えて欲しいの。いい子にしているから、ずっといい子でいるから、だから答えて。何が、一番、大切なものなの?
 淋しかった。ずっと、淋しかった。でも、誰にも、本気では甘えられなかった。お父さんにも甘えられなかった。お母さん、本当は嘘を吐いていたの。お母さんはよく、神様を信じなさいって言うけれど、本当は信じていたのは、神様を信じていたお母さんのこと。まっすぐ生きなさいって、貴方が、泣きながら言ったから。
 なのに、貴方は、あの涙の理由を、ただの一度も教えてはくれなかった。

 その夜、あれ程強く吹き付けていた筈の、ノーサ=タム山からの風が止んだ。
 頭上に輝く六つの星は、ほぼ直線に並んでいる。ノーサ=タム山は、沈黙した。

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