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十一

「入隊おめでとう」
と、背の高い刈り上げ頭の男が言った。チャルの周囲をぐるり囲んだ、残りの四人の男もそれに合わせてくくと笑った。全員、だらし無く伸びたシャツを着た姿であったが、間違い無くここの隊員だ、とチャルは思った。後退りすると、それに合わせて五人の描く円も動く。その場で二、三度回っているうちに、徐々に円は小さくなった。
 危険を感じた。大声を上げようとした。その瞬間、背後の小男がチャルの口を押さえた。両脇の男がそれぞれ手足を押さえる。チャルは担ぎ上げられて、深く茂る森の中へと連れ込まれたのだ。闇が、チャルと男達を呑み込む。チャルは、その暗闇の中に浮かぶ、男達の目を見た。狂気の目だった。
 チャルの制服や、髪を束ねていたリボンが引き裂かれた。チャルは、首を振り、手足も動かした。だが、それは抵抗と呼べる程のものではなく、男達の手を逃れるには余りにもチャルは非力だった。チャルには、彼等の求めるところを理解できた。だが、それを肯定する訳にもいかなかった。
 違う、違う、違う!思考が全て、全否定で埋まった時、下半身から脳天にまで一直線に激痛が走った。内蔵を掻き回されるような感覚に、嘔吐感を催す。そして、一人目の男が目的を達成した瞬間、何かが粉々に壊れた。咽喉の奥から吐き出すように吠えた。だが、両脇の男が口もしっかりと塞いでいるので、それはいかにも雌の悶えにしか聞こえなかった。
 二人目の男がズボンを下ろしたその時、集団をランプの灯が照らした。
「止めろ!」
と叫んだ声の後に、二人目の男は激しく殴り飛ばされていた。続いて、まだズボンを上げ終えていなかった一人目の男が、顔が裏返る程に左頬を打たれ、闇に消えた。残る三人が怯んだ一瞬、チャルは全身の力を絞って腕を振り解いた。先程の声の主が、チャルの体を男達の円の中から連れ出した。
 声の主は、やはり青少年隊の制服を着ている。抱き上げられた時にチャルは、その制服の胸に分隊長のワッペンがあるのを見た。背が高い訳ではないが、がっちりした体格の男である。
 五人の男は、慌てて走り去った。先程彼が持ってきたランプが、チャルの傍らで灯を放っている。その灯の中、男は振り返り、チャルを見た。
「チャル=モノモだね?」
チャルの制服は形も無く、灯に白い肌を曝け出している。男は、制服を脱ぐとそっと差し出して、また背中を向けた。
「僕は、第七分隊長ガジン=マイン。ゲンツ=ヤタタと同期だった」
 チャルは全く反応しない。ガジンの制服を肩から掛けて、転がりそうなくらい身を縮めて震えている様子が、灯に浮かんだ。しばらくしてガジンは振り返り、そんなチャルの様子から全てを悟り、舌打ちをした。
 チャルの目には、波紋が映っていた。光を反射、屈折させ、どこまでも広がっていく波紋。ゲンツ、ゲンツ、行かないでよ。ゲンツが遠くなっていくみたい。
 ゲンツ、ゲンツ。私、何故ここにいるのかしら。ゲンツ、ゲンツ……。
 一生懸命、頭を振った。でも、下半身が覚えている。思い出したくなかった。嘔吐感が、チャルを襲った。汚い下半身を、切り離してしまいたかった。だから、涸れた涙を、必死に零した。これでもか、これでもか……。

 側近、ボウ=ダウカは書斎で、ワインを片手に死体を口説いている。
 淡いランプの灯に浮かんだアマニの亡骸を、右の肩に寄り添わせて、口髭を器用に避けながら、ぐいとワインを飲み乾して、
「僕の傍から、離れないで」
と、甘い声を出し。もの言わぬアマニは、じっとボウを見据えている。ボウは彼女の乾いた唇に触れて、深く息を吐いた。
 彼女が息をしているかどうかは、さして問題ではなかい。大事なのは、アマニ=メレはここにいるということだ。約束するよ。いつでも傍にいる。
 君は裏切ったりしない。笑ったり、見下したりしない。信じてくれている。ありがとう。きっと、敵は取るよ。逃げて行った奴隷達を追って、明日、メルギッチ帝国に攻め入るよ。この手で、奴らをぼろぼろに引き裂いてくるから、待っていてね。
 それにあの国には、あいつらが、父と母がいるんだ。こともあろうに奴隷達と結託して逃げ出したあいつらが、息子のことなど忘れて平和に暮らしているのだろうあいつらが、いるんだ。
 知らない間に弟が生まれていて、それが戦場でくたばっているのを見付けた時には、思わず笑い出してしまったよ。だって、穴の開いた腹を必死に両手で塞いで、こちらを見て、メルギッチ帝国万歳、って言ったのだ。本当は一思いに首を跳ねたかった。ところがそれは右手に、ダウカ姓を刻んだナイフを握り締めて、自らで首筋に宛っていたのだ。それを見て思わず、そのナイフを蹴り落として、言ってやったよ。人間らしく生きてきた奴には、格好良く死ぬ権利など無い、ってね。
 あの時、本当に、人間は愚かだと思ったのだ。そう思わないかい?君のように、いつまでも美しくいることなど、人間にはできないんだ。生きている奴らなんかに、この高尚な愛は理解できない。だから、もう、二人の間には何の障害もないんだ。
 敵は取るよ。そして、素晴らしい世界にしよう。

 今回のメルティーヌ王国軍の作戦実行に当たって、三人の軍人、ダバ=ガジャ中将、ナト=コミュ小将、フジル=ティトル第五師団長はこんな夜遅くまで、ダバの書斎小屋で作戦の確認をしていた。
「ルートの確保を、明日の昼までに行う。ナトの担当だ。その間フジルは、先刻持ってきた武器とその他装備の確認を、第一、五、八師団と共に行う。私は明日の昼までに、合流する中央の師団の者と会って、作戦時の配置を決定させる。以後の本部は、ここからフジルの自宅横の馬小屋へ移す」
ダバの低い声に、二人は頷いた。
 ダバは一度溜め息を零し、書類をぽんと机の上に投げた。背もたれに体を預けて、天井をしばらく眺めてから、ゆっくりともう一度体を起こした。
「頭の悪い戦いになるぞ。もしも、そこに『神の力』が無かったら、あいつらはどう出るだろうか。例えあったとして、あいつらが『選ばれし者』だと思うか?無理さ。無理に決まっている」
机に両手の肘を載せ、ダバはフジルを見やった。フジルは、瞬間に身を凍らせた。横を見れば、やはりナトも、こちらをじっと見ている。
 フジルは、呼吸を整え、ダバの広い額を見据えて、言った。
「このままいけば、有利なのは我々です。ただし、この作戦がメルギッチ帝国に漏れていないことが条件です。ノース山脈より向こうの地理に関しては、我々はほとんど知識を得ておりません。となれば奇襲以外の戦法で、地元の軍隊に勝つのは難しいのです。それに……」
ダバとナトは思わず息を呑んだ。
「頂上まで行ったら、貴方は、振り向く気でおられる」
 フジルは、身じろぎせずに、ダバを見据えた。笑っているようだった。今度は、ダバが凍る番である。
「やはり、お前は、危険な男だ」
ダバは笑ってみせた。
「そこまで分かっても、私には何もできないのですよ」
フジルも笑って答えた。
「貴方の采配は、いつでも見事でした。これからも……」
フジルは立ち上がり、背を向け、扉を開けた。広がる無限の暗闇に、体を半分沈めたところで、もう一度フジルは振り返った。
「私が、貴方の立場なら……」
ダバとナトは、背中に激痛らしきものが走るのを感じた。
「やはり、振り返るでしょうね」
 扉は閉まった。部屋の中に、渦のような空気の流れを作って、フジルは出ていった。ややしばらくの沈黙を、堪らずナトが打ち砕くように呟く。
「敵なのか?味方なのか?」
ダバが、ゆっくりと答えた。
「すこぶる危険だ。あいつは、何かを企んでいる」
「策はあるのですか?」
「戦略と云うのはな……」
ダバは、ナトを横目で見やって、ほくそ笑んだ。
「戦いが始まる前に、終わらせるものなのだよ」
 この時、ナトはダバの真意を計り知れなかった。彼は、自分も駒の一つであることに、未だ気付かないのだった。
 その頃フジルは、馬を走らせていた。自分の家へ向かう細い一本道ではない。首都バカサへ向かう街道であった。

 チャルは、
「お腹が空いた」
と、一言呟いた。それを合図にガジンは振り返り、チャルに腕を差し伸べた。それに捕まり、立ち上がろうと腰を持ち上げた時、嫌な感触が下半身を駆け抜けた。へたりとまた座り込んだチャルは、今度こそ間違い無く涙を零した。嗚咽を零して、顔中から体液を搾り出すように、泣いた。
 ガジンはひざまづき、そっとチャルを抱き締めた。その長い髪をそっと撫でてやった。チャルは必死に、何かを言おうとしている。鼓動と、呼吸を共有するように二人は、耳を澄ました。やがてガジンが、
「なんて言ったらいいか、……分からないよ」
と呟いたのを聞いたチャルは、口を一度ぎゅっと紡ぎ、しっかりとガジンを抱き締め直した。ただ、彼の手の中で、泣くしか無かった。
 ゲンツの顔が思い出せなくなった。もう、どうしても、思い出せないのだった。

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