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十二

 ゲンツがふと目を開けると、天井に大きな穴が開いていて、星空が覗いているではないか。驚いた。何故?そう思った次の瞬間、ゲンツは空を飛んでいた。
 下を見た。大きな建物、あれはきっと病院だろう。小道が続いて、遠くに町が見える。振り返ると、あれはノース山脈だ。星空を、山脈の陰が切り取っている。その中で一際、存在感があるのはノーサ=タム山だった。父のようで、母のようだ。圧倒的な存在感に、ゲンツは唾をロんだ。
 風の無い夜だった。ゲンツは、しばらくノーサ=タム山に見つめられていた。やがて、意識の奥に声のようなものが聞こえた。
「何が欲しい?」
 ゲンツには、そう聞こえた。ゲンツは、
「動く腕が欲しい」
と答えた。
「それから?」
「動く足が欲しい」
「それから?」
ゲンツは、しばらく悩んだ。それから、零すようにこう答えた。
「永遠の平和が欲しい」
「永遠の平和……」
 声は沈黙した。悩んでいるように思えた。
「『永遠』も、『平和』も、人間の生んだものだ。我々の解する範疇に無い。人間の、文明と社会が生み出した集団幻想の表れで、あまりに抽象的だ」
 突風がゲンツを殴り付けた。ゲンツは地面に強く叩き付けられた。白い埃が舞い上がり、視界を遮る。ゲンツは首を懸命に傾け、その埃の向こうを見た。見覚えのある風景だった。
「ゴル=ニチバ……?」
 身動きの取れないゲンツの体を、それまで宙を舞っていた筈の埃が一斉に襲った。巨大な生物の舌のように、白い埃の群れがゲンツを呑み込む。
「うわあ!」
「くすくす、こいつ、手遅れ」
白い埃は、耳元で囁いた。ゲンツは首を振って、それを解いた。埃はゲンツから離れ、空中で静止した。一定の間隔を保ってゲンツを取り巻き、じっと見つめるように。
「くすくす」
「なんだよお、笑うな」
「くすくす、聞こえているよ。人間なのにね。やーい、やーい、のけ者、怠け者、嫌われ者、愚か者」
「何だ?」
白い埃のように見えたものは、どうやら小さな生物のようだ。恐ろしい数の白い微生物達は、踊りながらゲンツの周囲を回って、その度に耳元で囁く。
「お前達は、壊すだけ。私達は、創るのにね。お前達は汚すだけ。私達が綺麗にしているのよ。お前達は、奪って捨てる。私達は、借りて返す」
「何のことだよ。僕が何をしたんだ?」
「くすくす」
 白の微生物達は再び急接近して、今度はゲンツの体をみるみる持ち上げていった。ゴル=ニチバの町が一望できる程の高さまで、体を一気に持ち上げたのだ。
 ゲンツは見た。何も無かった。否、よく見てみろ、絨毯のように、生々しい色の人間や獣の肉体が敷き詰められ、どこまでも続いているではないか。
「捨てた。くすくす」
肉塊は、腐敗も、風化もせずに残っている。時を止めたようだ。敷き詰められた死体の、今にも動き出しそうな手や、足や、目や、唇がこちらを向いている。助けて、そう言い出しそうな表情だった。地獄だった。
 呆然とするゲンツの目の前で、白の微生物達は死体の一つを持ち上げ、包み込んだ。みるみる死体はそれらしい色に変わり、粉々に砕け散った。それ全体で生物のように動き回る白の微生物達は、大きなうねりのようにゴル=ニチバのあちこちで死体を呑んでいる。その度に死体は音も無く砕け散り、白の微生物は弾けるように数を殖やした。
 大きなうねり、呑み込まれる肉塊、砕けて消える。うねりは波紋のように広がった。白いシーツのように波打ち広がる微生物達はそして、いつしか東の海岸線を目指すようになる。
 瞬きをした次の瞬間、ゲンツはゴル=ニチバの海岸に来ていた。星空に抱かれた大きな海の、遠くから忍び足のような波の音が向かってくるのを感じた。潮臭い風に誘われるように、白の微生物達はここへ向かってくるのだった。
 白の微生物達は、海岸線まで群れを成している。そして、波に打たれて端から消えていった。帯のように並んで、海に吸い込まれていく。
「苔だ……」
海岸を示すように引かれてある一本の黒い線は、徐々に太くなっていく。それは、苔の線だった。白の微生物達は、ここで、苔となっているのだ、とゲンツはすぐに理解できた。
 返しているのか……?
 夜の海は静かに、波を繰り返し送り続けている。それに応えるように、白の微生物達はここにやってきて、その身を溶かしている。苔の海岸は休み無く作られていく。
 繰り返す波の音だけが、やけに耳に残るではないか。
 その営みを、ゲンツは飽きること無く眺めていた。

 リィナは草原を歩いていた。
 膝まで伸びた草を掻き分け、掻き分け、でも風景はいつまで経っても変わらない。どこまでも眩しい緑の草原と、青い空。お母さん。お母さんを捜した。
「お母さん、逃げよう」
目の前に、お母さんが立っている。飛び付いて、お母さんの体を揺すった。
「逃げよう、逃げよう、遠くへ、遠くへ」
「何故?」
「分からない」
「どこへ?」
「美しい所」
「どんな?」
「ニタは、黙っていてと言ったけれど、動物もたくさん、植物もたくさん、皆が仲良しなの。皆が必要なの。誰一人欠けてもいけないの。そして、綺麗なの。何でもあるのよ」
「ここがそうじゃない」
「違うよ、ほら、あそこ」
 リィナが指した先には、果て無く赤い土と黒い雲が広がる世界があった。リィナの足は見る見る土埃に埋もれて、リィナは動けなくなった。どこを見ても何も無かった。どこまでも、赤い土と黒い雲の世界が広がっている。
「これが望みなのか」
横にお父さんが立っていた。青い帽子を差し出してきた。
「お誕生日、おめでとう」
「違う……、お父さんじゃない!」
 父を突き飛ばした。その瞬間、リィナは光を見失った。
「お母さん?」
返事は無い。
「お父さん?」
リィナは震えた。
「ねえ、ここ、どこ?何も見えない!光、光……」
 突然、光がリィナを包んで、染み込んできた。リィナは必死に掴もうとした。光はその手を擦り抜けて、リィナの胸に突き刺さった。冷たく体に食い込み、暖かくリィナを包み込む。母のようであり、父のようだった。抱かれているようだ。光は、匂いもある。シチューの匂い、^ムル湖の匂い、トトの匂い。一つ一つは鮮明で、しかも一辺に襲ってきた。味もある。音も聞こえる。
「逃げよう、リィナ」
「誰?」
瞬きをすると、リィナは夜空の中にいた。風一つ吹かない空を泳いで、仰ぎ見ると星空に一つ、大きな光の球が浮かんでいるではないか。
「間違える前に、逃げなさい」
光の声は、優しい女性の声だった。否、音だった。否、違う、これは、ニタと話す時の言葉だ、あの言葉だ。
「貴方も、他の人間達のようになりたいのですか?」
「どうなるの?」
「人間は、間違えたのです。あれは、ニグマレーダムールの望むところではありませんでした。ニグマレーダムールは、つい先程、審判を下すよう私に意見を求めてきました。私は、悲しいです。ニグマレーダムールは何度も、何度も貴方達に手を差し伸べたのに、気付いてはくれなかったと言っています」
「貴方は誰?」
「私はヨホトマイカ。私は、淘汰するつもりです。もう二度も、我々はチャンスをあげたのに気付いてはくれなかった。ニグマレーダムールは、またチャンスをあげたいと言いました。でも私は、貴方にこそ、生き延びてもらいたい」
「どういうことなの?何なの?何が起こるの?」
「貴方が逃げれば、ニグマレーダムールの意見は却下します。そして、私の望むように人類を淘汰します」
「とうた、って?」
「時間は無いのです。早く逃げなさい」
 光が消えると、そこはタムル湖畔だった。トトを捜した。森の中へ入っていこうとする背中を見付けると、リィナは叫んだ。
「危ない、トト!」
トトは、森の闇に少しずつ吸い込まれていく。リィナは追った。だが、誰かがその足を抑える。見ると、ニタの二本の角が、両足にそれぞれ突き刺さっている。だから、リィナは腕を伸ばした。すると、今度は木の枝が、その腕にからまる。トトの姿が小さくなると、森は突然炎になった。
「待って!」
リィナは、必死でそれらを振り解き、ひたすら走る。もうすぐで、トトに手が届く!その瞬間に足元で何かが崩れ落ちた。
 深い、深い水の奥。遠くからゆっくりとやってきた光の球が、再びリィナを包み込んで、言った。
「これも、運命……」

 風の無い夜であった。近頃は、あれ程必死に風を送り込んでいたノーサ=タム山が、今日は沈黙していた。
 まるで、全てを知っているようだった。夜の闇を司るように、その偉大なる麓に棲む生物を抱いて眠っているようだった。まるで、全てを知りながら、子供が一人で歩けるようになるのを見守る、親のように……。

 そして、リィナは最後の朝を迎えた。

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