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花 第三部

十三

 メルティーヌ王国の長、パシャール=メール=ティマ王の朝は遅いと相場が決まっていた。だがその日、まだ東の空が白んだ程度の早いうちから、彼は目覚めた。大きなベッドを転がるようにゆっくりと這って、短い足を床に付けた。ふかふかの絨毯もまだ、夜の冷たさを引き摺っている。皺くちゃのパジャマを脱いでベッドに投げ置くと、パシャールは大きなあくびをした。ふと見やると、カーテンの隙間から、輝き始めた空が覗いている。空は灰色だ。どうやら今日は、良い天気ではないらしい。パシャールは立ち上がり、おもむろにカーテンを開けた。
 空を一面、灰色の雲が覆い隠している。風一つ無い、気怠い朝だ。パシャールは窓を全開にし、大きく深呼吸をしてみた。
 さて、こんな朝早くからでも無論、城に住む者達は働き始めている。が、王の身の回りを世話する者達は、王の起床時間にすっかり慣れて、結論、未だ夢見心地であった。だから、寝室の扉を強く叩く音がした時、召使い長の老婆は只ならぬ不吉なものを感じたのだった。
 彼女を叩き起こしたのは、王室警備の兵士であった。こちらも不思議な顔付きで、だが冷静に、迅速に用件だけを述べる。
「王が、目覚められた」
 さあ、大変だ。風呂はまだ沸いていない。食事はまだできていない。第一、召使いの多くはまだ準備ができていない。大急ぎで着替えを済ませた老婆は、その年齢からは予想され難い速さで廊下を突き走った。そして、あの独特の広い背中と締まりの無い歩き方で、右手に着替えを丸めて抱えて、パンツ一枚を身に纏い浴室へ向かう姿を認めた。
「お待ち下され!」
と叫んで、老婆は王を引き留めた。王は立ち止まり、振り向き老婆を見やった。老婆は、さて、いかにおべっかを使ったものか、思案に暮れた。とりあえず息を落ち着かせて、時間を稼いでいたその時である。
「まだ、寝ていてよいぞ。わしは一人で、水を浴びたいだけなのだ」
 王はにこりと笑って、また再び歩き始めたのだった。老婆は呆然、あんぐりと開けた口を閉じられなかった。
 浴室は、立派な岩をふんだんに使った、この城の中で唯一趣味の良い部屋の一つである。パシャールは脱衣室から通じる扉を閉めて、まずは脇にあった井戸の水を汲むと頭から浴びた。もう一度浴びた。歯が軋むような冷たさは、パシャールの勇気を奮い立たせるのには充分過ぎる程である。パシャールはだぶだぶの腹を二度叩いて、空を仰いだ。
 天窓の曇ったガラスの向こう側に、だんだんと白く光り出す空が見える。
「曇っていやがる」
と呟いて、パシャールは笑った。昨日までの天気が嘘のようであった。
 今日は、何かが起こりそうな、嫌な天気だ。
 パシャールはもう一度水を頭から被った。そして、深呼吸をして、再び浴室の扉を開けた。扉の脇では、寝呆け顔の浴室係と着替え係が控えていた。びくつきながら上目遣いでパシャールの機嫌を伺う、二人を見てパシャールはまた笑った。
「よいよい、寝ていろ。わしももう、部屋に戻る」
「も、申し訳ありませんでした」
浴室係は冷汗を額に滲ませて、頭を下げた。王は、だが、それも咎めようとはしない。一人でそそくさと着替えを終え、裏返しのパンツのまま、脱衣室の扉を開けた。

 側近、ボウ=ダウカの私室の扉を叩く音がする。ボウはベッドで、アマニ=メレという名の屍に添われて、夢を見ていた頃であった。夢は二人の結婚式の様子を美しく描いていた。だが、祝いの席で出された食事に顔をしかめた。まず出されたのは、ボウが家族と暮らしていた頃によく食べさせられた芋を練って焼いたやつだ。次に出されたのが、ペットの餌で、野菜と食べ残しの豚肉をお湯で溶いてこね合わせたもの。最後に、大きな焼き肉が出てきて、気が付くと隣にいた筈のアマニがいない。ああ、これはアマニを焼いたものだなと思い、何故だか涙を流す程に喜んで頬張ったところで目が覚めた。
 尚も執拗に扉を叩く音が続いて、ようやく、彼は目覚めたのだった。そして、アマニにしばしの別れを告げる口付けをして、それをクローゼットの奥にしまい、それから、扉を開けた。

 メルギッチ帝国、アホガ城を訪れる一人の老人がいた。背中に大きな鉄製の筒を持って、彼は王室へと通された。名を、ロイザ=ディーパと名乗ったその老人は、にやけた顔をそちこちに向けながら、廊下を進んだ。
 王室の扉が開かれ、ロイザはゆっくりと前に進む。その脇に大男、テガマ=ニニッツ将軍を認めた。テガマの合図で扉は閉められ、その風圧に押されるようにもう一歩、老人は前に進んだ。
 正面の玉座にはジノス=メール=ギチ皇帝が座っている。左の手で頬杖をして、体の右半分をすっぽりと深紅のマントが覆っていた。一言も口を開かず、じっとロイザを見やる。歳の頃は、ロイザと同じか、やや高くも見える。だが、鋭い視線は未だ健在で、老人はそれに魅入られて、少しだけ背中を強ばらせた。
 向かって左手にある、北向きの大きな窓は大きく開け放たれていて、吹き付ける海からの風を部屋の中へ取り込んでいる。ロイザは身震いを一つしてから、膝をついた。ここでロイザは気を取り直した。平静を取り戻し、背中の筒を脇に降ろし、ロイザは皇帝を見て、語り出した。
「今日は、重大な事実を報告に参りました。『神の力』の所在であります」
「タグラート湖ではないのか?ロンサ=テップとやらよ」
ジノスは嘲るように言い放って、笑った。ロイザは、今度はすぐに笑い返した。
「なるほど、全てお見通しという訳ですか。ならば、話は早い。私は、誰がこの大陸を治めるかなぞに興味はありません。純粋に、骨の髄まで学者であります。可能性を客観的に見通して、単純に結論を述べるまでです。ボウ=ダウカには天下を治める技量など無い。『神の力』が確かに予言通りに存在するとすれば、ボウに渡す訳にはいかないのです。その上、メルティーヌ王国では総力を決した軍事クーデターが起こる。更にその混乱に紛れて、最新兵器を備えた部隊が離反する。これで、間違いなく、貴方の天下ですよ。貴方の予想通りにね」
「成る程、貴様も全てお見通し、か」
「こんな話を知っていますか?タグラート地方に広まった話ですがね、バンディルス、ええと、こちらではバンディーリッツですか?その一族の血は滅んだのですがね、それにまつわる逸話がありまして、あの一族の末裔であった男がおりまして、その男、その、気が違ったらしく、いつ頃からか自分がこの世を滅ぼしてくれるなどと騒ぎ立て出して、やがて忽然と姿を消したんですよ」
「……六百七十年前か?」
 ジノスの眉がぴくりと動いたのを、ロイザは見逃さなかった。ロイザは立ち上がった。扉の横で静観していたテガマが、慌てて前に進み出ようとしたが、ジノスがそれを顎で制した。ロイザはジノスに感謝の一礼をして、傍らに置かれていた筒を持ち上げて、北の海を望む窓辺に立った。筒を窓に立て掛け、何やらごそりごそりと準備を始める。
「これは、私のこの大陸での最後の発明です。『ロケット』と命名しました」
 二本のレールを敷き、その上に筒を置いた。ロイザは仰向けになって、筒に背中をくくり付けた。そして、筒の端から紐を垂らして、その先に火打ち石で火を付けた。
「貴方は恐らく、私が本当の『神の力』の所在を口にした瞬間、そこの大男に、首を跳ねろとでも言い含めてあるのでしょうから、こうせざるを得ないのです。これは私の体を、矢のごとく遠く、海の彼方まで連れて行ってくれる装置なのです。この筒の中には、黒閃石の粉末が詰まっていまして、ま、そんなことはどうでもいいのでして、この紐が燃え尽きると私の体は飛んで行くのですよ。さて、『神の力』の所在ですが、例の、バンディーリッツの草稿ですが、ご存じの通り、六百七十年前のあの事件より前に書かれていた。だが、ボウは馬鹿で無知なので、あの事件の前に既にバカサ城は建てられていたこと、あの事件でバカサ城の城壁が崩れたことを、知る由も無い。城壁の正門が崩れ、堀も埋まってしまいました。つまり、現在のバカサ城の城壁の外周を計って、ダノという単位を求めても意味が無いのです。設計図が残っているのなら、始めからそれを計れば良かったのだ。やや、紐の残りも少なくなってきました。一ダノは、本当は、四百八十六・二二八メトン、それを使って計算すると、ややや、もうこれだけです。ではさようなら。その場所は、メルギッチ領、ホプランティック……」
 突然、物凄い音と共に、ロイザの頭が粉々に砕けた。その次に、鉄製の筒に縛られたロイザの体は、これまた物凄い音を伴って、遥か彼方、海の向こうへと消えた。
 部屋の中には、煙が立ち篭めた。焦げたような匂いの中をかいくぐるように、テガマは玉座の下へと駆け寄った。皇帝を包む深紅のマントに、大きな穴が開いている。皇帝、ジノスはテガマを見て、にやりと笑った。
「大成功ですね」
テガマは穴の開いたマントを取った。隠されていたジノスの右手には、鉄製の大きな筒がある。その先から煙と匂いが、漂っていた。
「命名されてしまった。『ロケット』と呼ぶことにしてやろう」

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