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十四

 首の辺りにかいた汗が気持ち悪くて、リィナ=ティトルは目を覚ました。見慣れた天井と、耳元にある白い帽子と、首に下げたままだった黒閃石のペンダントとを確かめるように眺めた。全てが、変わり無くあるかのようだった。だから、リィナは慌てて居間に出てみた。
 テーブルの上の、青い帽子と、一枚の手紙。
 リィナはもう一度部屋に戻った。扉を閉めて、そのままへたりと座り込んだ。窓の外の空は、雲ですっかり覆われている。今日は何故か、風も、小鳥の声もしない。死んだように静かな朝だった。鼓動を聞いた。一つ、二つ、生きている証を求めながら、リィナは首を振った。耳元で囁く声が聞こえる。
 逃げよう、リィナ、逃げよう。何処へ?お母さん、私、この家で独りぽっちで、でも、貴方が言った通りに、私、貴方が言っていたように、……がんばったのに。もう、逃げたい。何処へ?そんなの分からないよ、でも、もう、ここへは帰ってこられないような気がする。
 そして、リィナは家を飛び出した。朝食も取らずに、白い帽子をしっかりと被って、逃げるように家を出たのだった。太陽が、本来ならばもうかなりの高さまで昇っている筈だが、雲に覆われた空が、白くなるばかりである。沈黙する木々、ノーサ=タム山の存在を背中に感じながら、何故だか恐ろしかった。全てがよそよそしかった。自分一人が取り残されているようだった。
 リィナは、まず、チャルの家に向かった。畑が広がるその脇を走って、途中転びそうになったが、リィナは怯まずに走った。誰もいない、長い道が続いた。何故だろう、誰にもリィナは会わなかった。小鳥の声も、風の音も聞こえない。振り返るといつものように、ノーサ=タム山がじっと見つめている。それだけだった。リィナは恐くて、尚も走った。
 チャルの家の扉を、何度も叩いた。でも、返事は無い。リィナはチャルの部屋の窓の下まで行って、覗き込んだ。いつも通りの、チャルの部屋だったが、チャルはいない。
 そして、ようやくリィナは、チャルが青少年隊に入隊したのを思い出した。

 チャル=モノモが目を覚ますと、高い天井と、消毒液の匂いと、窓の向こうの不機嫌そうな空があった。がちゃりがちゃりという音のする方へ首を傾け、体を起こす。下着姿なのに気付き、慌ててチャルはシーツを被り直した。その衣擦れの音が、敷居の向こうの音を止めたようだ。足音が少しあって、背の低い初老の医者らしき人物が顔を出した。
「おお、起きたか。てっきり一日眠りこけるかと思ったぞ」
「あの、ここは?」
 白髪混じりの初老の医者は、チャルの話を聞いていないかのように背を向けて、戸棚を開けて何やら出し始めた。後向きのまま、綺麗な白衣を投げ付けて言った。
「裏の崖で転んだんだって?どじな奴だ」
「えっ?」
チャルは白衣を手に取って、しばらく動きを止めていた。敷居の向こうに消えた、初老の医者は続けた。
「そういう話に、なっているんだ」
 その一言でチャルは全てを思い出した。シーツをしっかりと握って、涙を幾つか流した。敷居の向こうの声が、やさしく言った。
「ダバ中将さんにな、頭の切れるのが入ったって言うから、わしによこせって言ったんだよ。お前さんは、わしの助手をしてもらう。早よ、それに着替えてくれ。仕事が貯まっているんだ。わしは、目が悪くて書類がよう読めんでな、……ええか?」
チャルは頷いた。何度も頷いて、まだ涙が残っていることも知った。

 朝食がまだだった。息を整えながらリィナは思った。チャルの部屋の窓の下に座り込んで、肩で息をしながら、白い空を見ていた。誰か、誰か、私を見付けて欲しい。リィナは、悔しくて笑ってしまった。兄の死んだ時のことを、思い出していた。
 当時は、あまりに幼かったので、何があったのか分からなかった。覚えているのは、急に誰も構ってくれなくなったこと。それと、父も母もどこか同じ方向を向いて、泣いていたことだった。それからしばらく、とても長い間独りぽっちだったような気がした。やっとお母さんがやって来て、抱き寄せてくれた。でも、その口から出てきたのは、聞いたこともない、遠すぎて難しい話ばかりだった。もう、はっきりとは覚えていない。でも、その時からお母さんのために、神様というものを信じようと思ったのだ。繰り返し貴方は、その名を呼んで、泣いていたから。
 なのに貴方は、その訳を、一度も教えてはくれなかった。
 リィナは立ち上がった。そして再び、走り出した。今度はゲンツの入院している病院を目指した。
 病院までの道では、何人かの人に擦れ違った。でも、誰もリィナを知らなかったし、リィナも知らなかった。よその町を歩いているような疎外感が襲ってきて、リィナは弱気になった。それでも病院へ向かった。ゲンツに会えば何とかなると思った。
 病院の、薄暗い廊下で会う人々も、人形のように見えた。そこに無造作に置かれてあったように見える。リィナにとって、一片の価値も無いものであった。何度も頭を振り、尚もリィナは走った。
 大部屋の、一番窓側のベッド。そこにも何も無かった。

 ゲンツ=ヤタタは震える目で見た。自分の顔を覗き込んでいた医者の目が失望していたことを見逃さなかった。昨日の晩からずっと、この個室に移されて色々と手を施されたのだが、どうやら全て虚しい努力だったようだ。そう、ゲンツに分からせるに充分な表情だった。ゲンツは、
「先生」
と、震える声で呼んだ。
 ゲンツの主治医である、肩幅の広い医者は、そっとゲンツの額に手を置いた。かける言葉が見当らない。だから、
「がんばろう」
とだけ告げて、顔を持ち上げた。
 脇に立って様子を見ていた助手が、医者に何やら耳打ちをした。医者は助手を睨んで、発言を制したようだ。もう一度ゲンツを見て、助手の方を向き直して、目だけで頷いた。助手は深く目を閉じた。
 ゲンツはもう一度、
「先生」
と、呼んだ。
「先生、人間は、奪って捨てるんです。奪って、捨てて……」

 リィナは倒れそうになった。それでも、タニモ川の急な川岸を登り続ける。会わねばならなかった。トトに、会いたかった。足を滑らして、足の指の爪の隙間から血が流れたって、立ち止まる訳にはいかなかった。お気に入りのブラウスが汚れても、ひたすら登った。トトがいるから。いるから、登った。
 急に開ける風景。深い森、その真ん中にある草原、湖。
 トトは暢気に、すうすうと寝息を立てていた。リィナは涙を止められなかった。

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