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十六

 トトが寝返りを打つ度に、リィナは座る位置を動かした。トトの耳元に座って、リィナはぼうっと遠くを見ている。ノーサ=タム山が、気難しそうな学校の先生の口髭に似ていた。それで、リィナはくすりと笑った。
 ニタが、角を振りながらやって来る。自慢の二本の角でリィナの肩を叩いた。
「あら、お早よう」
ニタは鼻をリィナの頬に押し付けて、挨拶をした。それから、トトの方へ向き直った。
「友達なの」
 リィナの方を向き直ったニタは、やけに深刻そうな目を見せた。口を開けて、ニタが鳴いた。
「どうしたの、ニタ」
と、言いかけたところでトトがもう一度寝返りを打った。そして、リィナの方に向いた目を、そっと開けて、びっくりして飛び起きた。
「あ、あれ?」
「お早よう」
リィナはくすりと笑った。ニタも笑って、トトに鼻をぶつけた。そして、
「別に大したことじゃないんだ。わしは、帰って昼寝でもしよう」
とだけ言って、すたすたとその場を去った。
「あれ?あの鹿は?」
と、トトは目を擦りながら聞いた。
「私の友達。ニタっていうの」
トトは、あの立派な角に見覚えがあった。だが、起きたての頭はあまり回転しないようで、トトは程無くして諦めた。
 ニタは名残惜しそうにリィナを見たが、ぷいとそっぽを向くように足早に去っていった。
 トトはまず、湖に頭を突っ込んで、顔を洗った。それまで、鏡のように平らだった水面に、ゆっくりと波紋が広がる。空の白と、森の緑が揺れているのをリィナはしばらく眺めた。今日は風が無いので、波紋は一通り広がって、止んだ。
 次に、リュックを漁って、パンを一つ取り出した。リィナが反射的に、お腹をぐうと鳴らしてしまったので、二人は大笑いした。
「今日は、朝、何も食べていないの」
と言うとトトは、パンをもう一つ出した。
「これで最後なんだ」
「じゃあ、後で買物に行かなくちゃね」
 良かった。目的ができた。町を見て、パンを買おう。リィナはパンを一かじりした。

 ベッドを下りたチャルを待っていたのは、チャルの腰の高さまで積まれた書類の山だった。騙された、とチャルは思った。何が嫌と云って、机の上の仕事ほどチャルの嫌いなものは、この世に無かった。チャルは初老の医者、センテス=ロッコを振り返った。
「やりがいがあるだろ?」
と、ずるい笑顔をみせた後、センテスはとっとと自分の仕事を続けた。チャルは覚悟を決めた。
 しかも、書類のほとんどが、判を押すだけの物だ。
「先生、何でこんな仕事、やる人がいないんですか?」
「皆、量を見て逃げ出すんだよ。こんなことやるために、ここに来たんじゃないってね」なるほど。
「でも、最初はこんなに無かったでしょう?」
「なるほど。それは重要な点だ」
チャルは馬鹿にされているような気がして、反論を止めた。
 センテス先生はどうやら備品の数を調べているようだ。あれは要る、これは要ると呟きながら、小さな体を右往左往させている。なるほど、いつもあれ程忙しければ書類はさばけないのかも知れぬ、とチャルが思った瞬間、
「いつもは仕事なんか無いのになあ」
と、零した。チャルは溜息を零した。
「一体、何事なんです?」
「戦争だよ」
 センテスはあっさり言い放ったので、チャルは思わず、手を止めてしまった。
「戦争?」
「あれ、知らんかったか?今晩かららしいぞ。そうそう、昼寝をしないといかんな。覚えといてくれい」
「……随分と、冷ややかにおっしゃいますね、先生」
「戦うのは軍人さんの仕事。わしらは怪我人を治すだけ。負けても、勝っても、仕事は減らんし、給料は上がらん。気張っていると、虚しゅうて泣きたくなるぞ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだ。ほれ、基本的にわしらの出番ってことは負けたってことなのよ。その数が多いか少ないかの違いだけでな。無駄口叩く暇で、書類裁いてくれい。一両日に提出せにゃあ、あんたみたいなエリートを引き抜いたんで、示しが付かんのよ」

 町の繁華街を紹介しようと思って、リィナはああと声を上げた。
「どうしたの?」
「今日、私、学校をずる休みしているんだった」
このまままっすぐ行くと、学校の前に出るのだった。リィナは一本裏に当たる、市場の通りを行くことにした。
 市場はいつでも活気に溢れている。色とりどりの果物達がそうさせるようだ。飛び交う売り声と、人々の動く様子が賑やかで、その渦の中で揉まれながら二人は歩いた。
 途中、トトの発案で昼食代わりに果物を買うことにした。が、二人の所持金を合わせても林檎二つ程度だった。
「貧乏だね。僕達」
「お父さんがね、子供はお金なんか持って歩くなって言うのよ」
リィナは林檎を二つ買った。お店の人が四つ、袋に入れて渡してくれた。
 リィナは林檎を一齧りしてから、聞いた。
「トトは学校、行っているの?」
「まさか」
と、トトは笑った。
「いいな」
「そうでもないよ。友達いないし」
「私は?私、友達だよ」
「うん、仲良くなる人はいるけれど、僕はすぐ次の町へ行くから」
「ふうん。ねえ、いつまでここにいるの?」
「え、ああ」
トトは林檎をくわえて、頭を掻いた。
「ねえ、ずっといてよ」
「えっ?」
「いや、……ね、いい町でしょ?ここに……」
「いや、ね、実は……」
 トトが口から林檎を離し、何か告げようとしたその時、市場の通りはにわかに騒がしくなった。右手に見えてきた大きな広場で演説をする兵士が見えた。誰かが暴言でも吐いたのだろうか、騒然とした空気が充ちている。
「醜いなあ」
リィナは呟いて、林檎を齧った。トトが飛び上がるようにして背伸びをしたので、それにしがみ付いてリィナも飛んだ。石畳の広場のど真ん中で兵士と商人らしき男とが口論しているのが見えた。
「ここで戦争してどうするのかしらね」
などと囁く声がして、二人はくくと笑った。
「でも、平和だよね。あの程度の争いで済んでいて」
と、トトが言ったので、リィナは驚いたように、
「平和?」
と聞き返した。
「喧嘩が大きくなったら戦争になるんだろ?喧嘩のうちで済んでいるのは平和だと思うよ。大の大人が、危ない物、振り回して、えばりくさった奴らに指示されて、団体で喧嘩するよりは、ね」
 トトは言ってのけて笑った。リィナの背後にいた、気取った服を着た男が突然、
「おいガキ!今なんて言った!」
と、鼻息荒くトトを睨むように顔を近付ける。トトは悪怯れた様子も無く、男を睨み返した。間に挟まれたリィナは、肩をすくませて、二、三度トトの手を引いた。男の手が、リィナの肩を越す。リィナはその手を齧った。
「ぎゃっ!」
男が怯んだ隙に、リィナはトトを引っ張って、人込みを抜けた。

 青少年隊第七分隊は、兵士二人に付き添われて病院を回っていた。半ば儀礼となった任務を彼らは不平も言わず続けていたのは、病人の出身地等を聞くだけという楽な仕事だと、勘違いしている隊員がいる程、成果の上がらない仕事だからだろう。ガジン=マイン隊長ですら、この任務の真意を知らなかった。
 兵士二人とガジン隊長は病院の事務室へ、残りの者は病院内の入院患者への型通りの聴取へと向かった。
 事務室の机の向こう側で、眼鏡を掛けた中年は、陰気な顔で見上げた。またか、と目が言う。
「この病院の入院患者のうち、ゴル=ニチバ出身の者、ゴル=ニチバに滞在した経験のある者はいるか」
と、兵士の一人が面倒臭そうに言った。
「おりません」
と、こちらもお馴染みの返事。ガジンはこの芝居がかった場面を幾度と無く見せられたのだ。
「ああ、済まぬがもう一度調べて欲しい」
今度は無言で、事務員はゆっくりと書類をめくり始めた。どうせいる筈が無い。今までも、そうだったのだ。
 ところがもう一人、脇でずっとそっぽを向いていた兵士が、事務員の前に出て、肩をぽんと叩いたのだ。
「すまんね、調査はこれで最後なのだ」
それはもう一人の兵士も、ガジンも知らない事実だった。
「そこで、と言ったら何だが、一人の少年を探している。ゲンツ=ヤタタというのだが……」

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