メルギッチ帝国の中央を走る長い街道に添って、皇帝を乗せた馬車の一群が走っている。道すがら擦れ違う国民達は、好奇の目を向けた。先程は同じ道を、軍隊の仰々しい行進が過ぎたばかりだ。ただごとではない。何やら、不穏な空気ばかりが立ち篭め始めた。
ジノス皇帝は、深い呼吸と、時折呟く独り言の他には何も口にしない。隣で、テガマ将軍はうとりうとりとしていた。突然、ジノスが、
「しまった!」
と叫んだので、慌てて飛び起きてよだれを拭った。
「どうしたのです?」
「行き先を間違えたかも知れん。おい、馬車を止めろ。地図と、定規を用意するんだ!」ジノスは、テガマの大きな肩を力一杯に叩いた。微動だにせず、寝呆け顔のテガマがもう一度聞き返す。
「どうしたのです?」
「バンディーリッツは、代々、歴史学者なのだ」
話しながら、尚もしきりにテガマの肩を叩く。テガマは窓から顔を出して、大声で馬を止めるように、使いに命じた。
顔を馬車に戻すと、ジノスは不敵な笑みを浮かべて呟いていた。
「バンディーリッツは一人ではないのだ」
急遽、道路の真ん中に机が置かれた。準備をするテガマや部下達に、独り言のようにジノスは言った。
「バンディーリッツは、膨大な資料を持っていた。文体が散文詩に似ていたからと云って、決してバンディーリッツの物であるという確証は無いのだ」
「すると、あれですか?よっこいしょ、っと」
椅子を五つ程抱えてテガマが聞いた。
「一族のうちの誰だか断定できない、と言うんですか?それと行き先と何の関係が?」
「気になっていたことが一点、ある。あらゆる伝記、神話に通じていた七代目バンディーリッツが、『神の御宿』等の表現を用いていた。この大陸には地方や時代によって様々な形の神が存在すると、本人が著しているのに、何故、その説明が無かったのか。無かったんじゃない、要らなかったんだ」
「要らなかった」
「これはかなり昔に書かれた、もしくはかなり前の代のバンディーリッツが伝承を書き留めたものだ。そうだ、思えば草稿にしては文体が散文詩的だ。つまり、少なくともこれを書いた代のバンディーリッツは、神を一つしか知らなかった。七代目の著した『神の住まう地』は、十二ヵ所もあるのに」
「じゃあ、それのどれなのか、このままじゃ分からないと……、待てよ?じゃあ何故、ロイザの奴は、ノーサ=タム山を始点に選んだのですか?」
「それだ。おそらく奴は、バンディーリッツの出身であったノース地方の、広く崇められているノーサ=タム山を用いて、そこから北と東へ二ダノづつを計ったのだろう。実際、上手い具合に、湖はあった」
ジノスは定規を当てた。確かに、ノーサ=タム山の北東へ二ダノ進むとホプランティック湖がある。
「だがこの辺は湿地帯だ。そこかしこに湖がある」
地図上の無数の水溜まりを指してジノスは言った。
「この際だから、もう一度、十二ヵ所を計ってみましょう」
「その必要は無い。私も、ノーサ=タム山を選んだ所までは賛成だ」
「では?」
「ノーサ=タム山は、大噴火を起こしたことがある。頂上の位置は七代目誕生以前に今の位置に変わったと、本人が書き残しているのだ」
ジノスは地図上の左人差し指をつつと動かした。
「ここだった筈だ。山の尾根の雰囲気から見て、間違いあるまい」
だが、そこから北東へ計っても、何にもぶつからなかった。ジノスは深く息を吐いた。
「閣下、こりゃあ取り越し苦労ですよ」
「『偉大なる力、風よりも、雲よりも、火山よりも、大海よりも、季節よりも、時間よりも何よりも強い力、この地に眠る。神の御宿より北、東へ……』、おい、『北』の後に句読点があるな。何故だ?」
「さあ」
「……『北、東へ』?北東ではない。北と東へ?違うな」
「文のまま捉えると、あたかも『神の御宿より北』で、東に二ダノ行った所と読めますね」
ジノスは頭を三度振って、ううんと唸った。
「まるで文章じゃあない。『あの山よりも北ですよ。東に二ダノ行った所』」
テガマは笑った。
「それじゃあ、まるで、子守歌ですよ」
「待てよ?子守歌か。かなり私的に伝承された子守歌、つまり一族に伝わる暗号めいた文章ではないだろうか。バンディーリッツは、だからこそ敢えて、『大陸史』には載せなかった、否、載せられなかったのだ。バンディーリッツ一族は七代目で絶えた。一族の受け継いだ土地がこの辺り。ここから東へ二ダノ。ノーサ=タム山よりも北へ、まっすぐ線を引くと……」
「おお?」
地図上の、旧ノーサ=タム山頂より北北東に少しだけずれた所、今の山頂の西側に当たるそこは、盆地になっていた。
「噴火で盆地になった部分だ。この地図には盆地としか書かれていない」
「はずれ、ですか」
だが、ジノスの目は離れない。
「何故、ここの土地には名前が付いていないのだ?ここはどうなっている?他の場所がこれほど詳しく、森林の様子まで描かれいるのに、まるで手抜きだ」
テガマは首を二度捻った後、馬車の後ろで退屈そうにしていた兵を呼んだ。そして、地図を見せ、ノーサ=タム山周辺の様子に詳しい者を、兵の中から集い、呼べと命じた。
「今回の作戦の前にも報告を受けましたが、確かその辺りは勾配が急で、土地に詳しい者も近付かないといいます。或いは、それが原因かと」
「匂うと思わんか?無論、確率の問題だ。だが、もし私の説が狂言であったにせよ、その場合、切り札はこちらの領土内ということになるのだし」
「と言いますと?」
「先に稜線まで掌握する、この作戦で正解だ。この盆地も、早いうちに掌握すれば、最悪の事態を避けられる」
後続の馬車の中から、何人かの者が呼ばれたが、一貫して知らぬと答えた。幼い頃から、そこまで山奥に入ってはいけないと教わっていた、という。祟りがある、という言い伝えもあるらしい。とにかく急な勾配で、それは作戦の発案時にも口が酸っぱくなる程言った、と憤慨する年寄りもいる。
「なるほど。今まで、誰もここを戦場にしていないのは、それが原因か」
老軍人は、違う、神の祟りを恐れたのだ、とまた憤慨したがジノスにそれは届いていない。ジノスは地図を睨みながら、くくと笑った。皺くちゃの指先で何度も、ノース山脈の稜線をなぞった。
「長い間、言い伝えによって守られてきた神域。本来ならば、バンディーリッツは、あの紙切れを処分せねばならなかったのだ。知らなければ、悔やむこともないのだから」
パシャール王国軍、ナト=コミュ小将は、軍需工場内の書斎小屋の荷物整理に追われていた。荷物整理の手を進めながら、表情は複雑に変化していた。
フジル=ティトル第五師団長の行方が掴めない。
「サインをしたのが裏目に出たとは」
ナトは書類を鞄に詰めながら、舌打ちした。もしフジルが、今でも予想通りの切れ者だとすれば、彼はボウ=ダウカ大将軍の傍に駆け付けていて、今頃、件の告発文を手にしているはずだ。
ダバ=ガジャ中将との連名で示した告発文の内容は、全くの繰り言である。フジル=ティトルは敵、メルギッチ帝国と結託し反逆を企てておりますので、彼と彼の部下に最新兵器を授けて最前線に出してはなりません、と書いたがこれは、まるっきり二人にこそ心当たりのあることであった。そして、この文面が今となっては、二人の罪状を明らかにするものとなったのだ。
ナトはすっかり青冷めている。口の巧さだけで地位を手に入れたナトには、度胸も、感の良さも、信念も無かった。ダバ中将は既にここを発っている。第一師団も行動を共にしている筈だ。第五師団はフジルの師団で、やはりいずこかへ移った後だ。第八師団については、全く分からない。もう、臨時作戦本部に移ったのだろうか。そして、第三師団だけがこの工場に留まったまま、師団長であるナトの指示を待つ形にある。
さて、どうしたものか。他人の尻を付け回しているばかりのナトには、このような場面での決断力は無い。おめおめとボウ大将軍の率いる本隊に加われるだろうか?否、ダバ中将を追い掛けるべきだ。でも、どこへ行った?
新兵器と新型ボウガンは、フジルの隊が持っているのだろう。そうだ、ここには持ってきていない筈だ。そして、そこへ第五師団がいるに違いない。ダバ中将はそれを追った……。
「よし、分かった!」
とナトは叫んだ。はずみで手に持っていた書類を散らしてしまったが、構わずナトは鞄を閉じて出掛ける支度を進めた。
第八師団を仲間に付ければ良いのだ。簡単なことじゃないか。きっと第八師団は臨時作戦本部で、馬鹿正直に他の師団が来るのを待っているだろうから。
第八師団長のドゴバー=スキテンは、フジルの右腕としてかつては名を馳せていた。が、一年前のゴル=ニチバ戦争以後、フジルと反発するようになり、喧嘩別れの形で第八師団を作った。今や二人は犬猿の仲だ。
ナトは急に元気を取り戻すと、小屋を飛び出して第三師団に集合をかけた。