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十八

 病院の事務員は、ぺらぺらと名簿をめくっている。その音を聞きながら、ガジンは放心していた。ゲンツ=ヤタタを、彼は知っている。だが、あいつとこの任務と何の関係があるのか、皆目見当が付かない。あいつを、何故、当局は探しているのか。
 そこへ背後から一人の医師がやってきた。
「お帰り願いたい」
と、中年の医師は強く言った。
「ここに、貴方達の探しているような患者はいない。帰り給え。見舞いの者でもないのに、あんな大人数で、病人の枕元を歩き回りおって」
医師は一息に言うと、腕を伸ばして事務員のめくる名簿を押さえた。そして、鋭い目を兵士の方に向けた。一人は臆したらしく後退ったが、もう一人は相変わらず冷静に返す。
「そうですか。ですが、これも我々の任務ですので、調べるだけでもしていただきたい。先程も言いましたが、これで最後です。もう、こんな下衆な真似は致しません」
終始笑顔を絶やさぬ兵士を横目に、ガジンは身震いした。
「とっとと帰るがいい」
こちらも引く意志をみせない。
「あのガキ達が、さんざん調べ回っているだろうが。もう隅の病室まで届いているだろう?早く帰るんだ」
 冷静な方の兵士は、ふうと溜息を吐いて、踵を返した。
「仕方あるまい。言い分はあちらも正しいようだ。ガジン君、皆に集合を」
 ガジンは急に名を呼ばれて驚いた。
「分かりました」
とだけ告げて、走ってその場を去った。
 虫の予感が脳裏を渦巻いている。ガジンは、それでも確実に任務をこなした。病院内に散らばっていた隊員に集合をかけ、やがて端の病室まで辿り着いた。一つ溜息を吐き、そこが端であることを確認するとまた走って引き返した。一室づつ、隊員が残っていないか確認をして、そして、その扉も開けた。
 薄暗い部屋だった。カーテンが閉まっているらしい。大きさから個室と想像できた。人の息が聞こえるのでガジンはベッドの方を伺い、思わず息を止めた。
 布団の上には、木の枝のような片腕が転がっている。肌は白く、光沢は失われ、頬はこけ、目だけがゆっくりと動いている男。ゲンツ=ヤタタによく似ていた。まさか。男はガジンを伺い、僅かに頬を吊り上げ、笑顔を作った。
「やあ、ガジンじゃ……ないか。どうして?」
ふと、男は目を閉じ、浅い息を繰り返してまた開けた。
「こっちへ……来てくれ。はは、……久し……ぶりだ。見てくれ、う……でが上がらないんだ。は……は」
ガジンは動けなかった。死神に睨まれた、そんな悪寒が走った。
 しばらく放心していた。遠くからガジンを呼ぶ声がする。こつこつと軍服の固い靴底の音が近付いてくる。
「違う」
と、ガジンは呟いた。
「お前など知らない!邪魔して、悪かった」
「どうした……んだよ」
男の目が淋しさを放った。瞬間、ガジンは後退ることを躊躇した。これがいけなかった。「違う、私はお前を知らないんだ!」
ガジンは思い切って顔を背けた。が、そこには既に軍服姿があった。あいつの方でなければよい、と思った。顔を上げると、あの冷静な方の兵士だった。
 兵士はガジンの肩を叩いて、擦れ違った。ガジンは呼吸が苦しくなるのを感じた。
「君……」
兵士は男に聞いた。確信を得た、笑みを向ける。
「名前は言えるか?」
「言える……よ。僕……」
止めろ、と言いたかった。
「僕……ゲン……ツ=ヤタ……」
「そうだよ!お前はゲンツ=ヤタタだ!」
 ガジンは叫んだ。その声は、静けさを取り戻した病院に響き渡った。ガジンは涙を浮かべて力一杯振り返って、言った。
「彼の名はゲンツ=ヤタタであります!私は以前、彼と第七小隊員として行動を共にしたことがあります!」
兵士は、にこりと笑って頷いた。
「そいつと、寝食を供にし、心底打ち解け合った仲でありました。一年前のゴル=ニチバ戦争より帰還後、彼は帰省を理由に長期の休暇をとっておりました。ですが、以後彼との連絡が取れず、今日まで彼の身辺にどのような出来事が訪れたのか、知る由もありません。たった今、こんな所で、こんな姿で……」
兵士はガジンの肩をやさしく叩いた。
「ゲンツ!なんで、こんな所に、いるんだよ……。なんで、そんな姿に……」
ガジンは崩れ、膝を付いた。大粒の涙と鼻水を零し、ゲンツを見据えた。枯草のような腕と、乾いた瞳と、震える唇を見た。生きているのか?と聞きたかった。聞けなかった。
 兵士は、廊下に出て隊員を呼んだ。やっと来たもう一人の兵士に、病院長と先刻の医師の身柄を拘束することを伝え、隊員にはゲンツ=ヤタタの身柄を拘束し、連れ帰るように告げた。ガジンには、やはり肩を叩いただけであった。

 あそこにいるのは誰?
 闇の向こうに、ゲンツの姿があった。
「もう、立って歩いても平気なんだ」
飛び上がって、チャルは喜んだ。走って追い掛けて、その胸に飛び込んだ。
 チャルの制服がぼろぼろに引き裂かれた。
 両手足を捕まえられて、声も出ない。闇に光る幾つもの獣の目が合った。
 夢はそこで終わった。
 カーテンの向こうは薄明るい。首から胸元にかけて、汗でびっしょりと濡れていて、気持ち悪くなった。上半身を持ち上げて、下半身に残るあの嫌な感触を思い出していた。涙など、枯れて出ない。乱れた息を静かに整え、でもまだ胸の動悸は納まらない。寒気が背中を走る。震えた。
 敷居の向こうでは、センテスがいびきを立てている。急に馬鹿馬鹿しくなって、チャルは静かに笑った。
 やっぱり、ゲンツの顔が思い出せない。
 決めた。ゲンツと一緒に、海を見に行こう。何でも、どこまでも水平線が続いて、その向こうから風が吹いてくるんだって。大きな雲と、眩しい浜辺と、潮の匂いと、波の音と、海鳥の歌を聞いて、ね。ゲンツ、海へ行こうね。きっと、行こうね。
 チャルは大きなベッドの上で丸くうずくまるように眠った。寒気が抜けない。きっと、淋しいからだと、チャルは知っていた。

 町外れの牧場の横を過ぎる轍を歩きながら、リィナはふふと笑った。
「びっくりしたあ。あんなこと先生に聞かれたら、ひどい目に会うんだから」
「そうなのか」
トトは照れ臭そうに頭を掻いた。
「そうよ。国を守っている軍隊の人を、馬鹿にしたみたいじゃない」
「したみたい、じゃなくて、馬鹿にしたんだよ」
 リィナは足を止めて、細かく首を振ってみせた。
「駄目だよ!そんなことを言っちゃ。私達を守ってくれているのに」
トトはまた二、三度頭を掻いた。
「何から?」
「メルギッチ帝国から」
 しばらくトトはふむふむと頷いて、リィナを向き返り言った。
「じゃあ、メルギッチ帝国の人は悪い人なんだ」
「うん」
軽い気持ちでリィナは答えた。
「でも、知っている訳じゃないでしょ」
「何を?」
「メルギッチ帝国の人」
トトは腰に手を当てて、指を差し向けた。リィナは返答に詰まった。
「そりゃあ、ね。会ったことないもの」
「決め付けちゃいけないよ。客観的に、冷静に、物事を分析していかねば、生き残れないぞ」
「なんか、父さんの小言みたい」
リィナは笑った。瞬間、あの青い帽子が脳裏を掠めて、笑顔を止めた。
「お父さんみたい」
とだけ繰り返して、リィナは口をつぐんだ。誕生日にも帰ってこなかった父。プレゼントは青い帽子。何故か、似ていないのに、父とトトが重なって見えた。
 トトはやっぱり頭を掻いた。
「御免。なんか、気に触ったみたいだね」
「ううん」
リィナは頭を振った。
「嫌なことがあると、どうしても嫌な方に、嫌な方に考えが行っちゃうのよね」
 草の匂いが立ち篭めて、むっとするような空気があった。リィナはくたびれたように草叢に腰を降ろすと、紙袋から残りの林檎を取り出した。
「食べる?」
トトは頷いて、隣に座った。不思議そうに手の中の林檎と、リィナを見比べた。リィナはしばらく、遠くを見つめながら無言で林檎を齧った。
 二人を見下ろすように、街路樹は枝を延ばしている。こんな曇り空にでも、それは影となって二人を包んだ。リィナはしばらくして、トトはこちらを向いていることに気付いた。
「やだ、何か付いてる?」
「否、何も……」
「そう」
リィナはもう一度林檎を齧った。トトは、一度は目を泳がせたが、やはりリィナの表情が気に掛かるようだ。
「どうしたの?」
「色々……あったのかな、と思ってね」
独り言のようにトトは、手の中の林檎を見つめて、それを転がしながら言った。
「今朝、……泣いていただろ?」
「あ」
 リィナははっとして、えへへと笑い出して、右手でトトの背中をばんばんと叩き始めて、声が掠れた。
「あ、ねえ、リィナ……?ねえってば」
「うるさい」
リィナはばんばんと背中を叩き続けた。左手から林檎が零れて、うつむいて隠している両目からも涙を流した。トトの背中を叩く音が弱々しくなると、今度はトトの肩に頭を二、三度ぶつけて、トトの左手にしがみ付いて、泣いた。
「リィナ?」
「うるさい。こうさせて」
 リィナの左手を離れた林檎は、ずっと転がって街路樹の根で止まった。味気無い色の空と、見渡す限りの草原。トトは耳まで赤くして、硬直したまま動けなかった。
 リィナはトトに、心の中で腐りかけていたものを洗い浚い打ち明けた。トトなら優しい目で、話を聞いてくれると思ったのだ。そして、実際、トトは優しい目をして黙ってリィナの話を聞いてくれた。
 ニタに話し掛けるのと同じ調子で、幼い頃、父に話していた口調で、リィナは打ち明けた。一旦外れたたがは、もう元に戻す必要も無い。リィナは一通り打ち明けて、ほっとしたように息を付いた。
「ありがとう。こんな話、聞いてくれて」
「否、何、これくらい」
「きっとね、父さんも忙しかっただけだろうし、母さんの事も、何か私が一人ではしゃいでいただけなの。でも、本当は、目に見えるような形が欲しかったんだ。でね、トトは約束してくれたでしょ。あそこにいてくれたでしょ。だから、嬉しくて。あのままじゃ、私、何もかもが嘘みたいだもの」
「嘘?」
「本当は、皆、不安で、泣きたいくらい淋しいの、きっと。明日のことなんて、分からないから。でも、約束があるなら、生きてゆけそうな気がする。トトが、また会おうって言ってくれた時、私、飛び上がりそうになったもの」
 トトは瞬間、表情を歪めた。リィナは気付かない。
「ねえ、トト。私、人が神様を信じる気持ちが分かるような気がする。独りじゃ生きてゆけない。約束があれば、明日を信じて生きてゆけるの。もしもね、一所懸命にやって、それが報われなかったら、すごく淋しいでしょ?いつか報われる、いずれ報われるって、そればかりじゃ、気が狂いそうになる。誰かが見ていてくれる、そう思うだけで何故か、自分が価値のあるもののように思えてくる。それが、神様っていう約束事なの」
「約束……」
噛締めるように、トトは繰り返した。
「私、我侭かな?」
そんなことはない、とトトが言う前に、リィナはすっと立ち上がり、スカートに付いた草を払いながら、笑って続けた。
「何も要らないの。ただ、明日が欲しいだけ」
 トトは答えられなかった。だって、明日なんか分からないじゃないか。
「ねえ、聞いてくれるかい?」
「何?」
「リィナ、僕はね、……」
……この次が言えない。君がそんな話をするからだ。
「僕は、君に、約束なんか、……できないんだ」
言い放つように、トトは顔を上げた。呆然と立ちすくむリィナを、正面になど見れなかった。
「僕は、もう旅立たなくちゃいけないんだ。僕は、君に、僕の本当のことを話してもいないんだ。僕は、君に、信じてもらえる程の人間じゃないんだ」
「トト……」
リィナが一歩、トトに近付いた。トトは立ち上がり、それを制した。
「実は、もう、時間が無いんだ。二度と会えないかも知れない」
「いつか、また……」
「駄目なんだ」
トトは再び、リィナを制して、言葉を探した。伝えるべきことはもう無い。トトは喋り過ぎていた。
「僕は、……君に会えたことは、とても嬉しかった」
それだけを告げて、トトは歩き出した。立ち止まり、振り返り、笑ってみせて、
「さよなら」
と告げて、また歩き出した。
 リィナの笑顔は形にならない。分かっていたことの筈が、リィナには突然過ぎたようだ。紙袋だけ握り締めて、しばらくぼうっとした。

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