太陽が傾いている筈だ。いつもならニタに会いに行くのに、今日はもうトトの顔を見れそうにない。咽喉まで来ていた涙を飲み込んで、リィナはゆっくり歩いた。
明日はね、明日はね、きっといい天気だから、きっといいことがあるから。
冷静になったリィナは、順番に考えを巡らせた。父は何処へ行ったのだろう。ひょっとすると、何かあったのだろうか。随分と、父に会っていない気がする。一昨日の朝は、家にいた。でも、あの日から一度も会っていない。
ゲンツにも、会っていない。何処へ行ったのだろう。病室にいないことを、チャルは知っているのだろうか。
チャルにはいつ、会えるのだろう。母には、いつ会えるのだろう。
皆、遠くなっていく。置いてけぼりにされたみたい。
何、やっているのかしら。こんなところで。
何も知らない、ということを、リィナは知った。独りじゃ何もできない、と知った。風景が、見慣れていた筈なのに、よそよそしかった。何か、語り掛けるように木の枝が延びている。逃げよう、リィナ。逃げよう。
逃げよう、リィナ。逃げよう……。
「誰?」
仰ぎ見ると、それは奇妙な光景だった。薄暗い空に撒き散らしたように、鳥の群れが飛んでいるではないか。大群だった。ノーサ=タム山の頭上に、鳥達が集まっていた。
「どうしたんだろう」
やがて、大群は一斉に移動を始めた。南へ、南へ。雨雲のようにも見える、その鳥の群れは、誘われるように南を目指した。
「何処へ行くのだろう」
脇目を振らずに南を目指す、鳥達をしばらく目で追い掛け、それからノーサ=タム山を仰ぎ見た。山は何も変わらずにそこにいる。ここ二、三日吹き付けていた風も無い。知らんぷりをしているみたいだ、とリィナは感じた。何か、知っているでしょう?何を知っているの?教えて、あの鳥達は何処へ行ったの?
何故、あの鳥達は、……逃げたのだろう。
東から闇が襲ってくるのが見えた。だが、不思議と寒くはなかった。蒸しているようだった。秋になろうというのに、今夜に限って、蒸していた。
どれ程、歩いたろうか、見慣れた風景が何故がよそよそしくて、リィナは不安になり辺りを見回した。家はすぐそこだ。何故か、風景は、静かだった。
家が無い。
リィナの家は、小道を進んで、小高い丘を一つ越えた所にあって、その丘を越えるまでリィナはその事実を知らなかった。家は無くて、黒く焦げた木片が弱々しくそこに組まれている。焦げ臭い匂いがそこらに立ち篭めていて、まだ空気が熱を帯びていた。
そこまでは覚えている。
ひんやりとした肌触り。湿った空気。
後頭部を鈍い痛みが襲って、リィナは目を開けた。
石造りの床と、壁が見えた。見上げると、ずっとずっと上まで壁が続いている。申し訳無さそうな窓が、その上のところにあって、薄暗い曇り空が僅かばかり見えた。
体を起こしてみた。振り向くと、鉄格子の扉がある。その向こうには薄暗い廊下らしきもの。松明の火もちらちらと見える。それで全てだ。
何処だ?
這うようにしてリィナは、そっと鉄格子の傍らに寄った。どちらを向いても廊下が続いている。その廊下の向こう壁もびっちりと石でできている。冷たい、湿った空気がどこまでも続いているようだ。唾を飲み込んだ。その音が廊下を伝ったようにも感じた。静かだ。そして、寒い。松明の火までもが冷たく感じる。リィナは、ここが、そんなに楽しい所ではないことを直感した。
リィナは、はっとして頭に触れた。帽子が無い。林檎の芯だけが入っていた紙袋はどうでも良かったが、あの帽子も無い。部屋を探す。といっても、人が二人寝転がれる程度の広さだから、落ちていないこともすぐに分かった。天井ばかりがやけに高い。ほんの少しの大きさの窓から覗く空は、何も言わない。リィナの立てる衣擦れの音だけが、耳についた。
まあ待て。こういう時は落ち着いて、振り返ってみるのがいい、とチャルがよく言っていた。答えを出す時には、順番が必ずある。家に帰ろうと、歩いていたんだ。家には着いたんだ。さて、それからだ。
家が無かったんだ。小道の曲角の所で立ち止まって、……。
気を失ったんだ。でも、何故?
ナト=コミュ小将はすっかり青冷めている。
臨時作戦本部は焼け落ちていた。あげく、愚図愚図と辺りを探っていたところへ、フジルの娘が帰ってきてしまった。結局、何の手掛かりも掴めないまま、のこのこと、ナトはまた工場へ戻ってきたのだ。
もう、ボウ大将軍率いる本隊もやってきている筈だ。どこに?
この工場は孤立したようだ。僅かに青少年隊の何隊かと、第三師団が草臥れて休んでいるばかりだ。陽が暮れていくぞ。罪状は明らかなのだ、早く逃れなくては、でも、ダバ中将とはぐれてしまっては、敵と思われるだけだ。それにしても、どこへ行ったんだ?ダバ中将と第一師団、第五師団、それにドゴバーの率いる第八師団、本隊。
待てよ?
何故、ダバ中将は本部を移動させようとしたのだろう。戦地に近いから、だけなのだろうか。それに、臨時作戦本部は焼けていた。誰が、火を付けたのか。
この部屋の石は、全部で二百七十四個だ。
数えても仕方が無いのだが、暇で暇で、それも仕方が無い。時の流れが止まったようだ。音も無い。僅かに見える空の色が黒くなったので、どこが窓だったのかも分からなくなった。廊下の松明は、楽しそうに揺れている。廊下とリィナを隔てている鉄格子には、必要以上に大きな鍵が掛けられて、出られませんよ、と教えてくれている。嫌味だ、とリィナは引きつった笑みを浮かべた。
歌でも歌おうと思った。でも、声が擦れている。指が細かく震えているし、唇も震えが止まらない。でも、気持ちはすごく落ち着いていた。
センテス先生はもう夕飯を食べ始めていた。
「おう、起きたかい。早く食べてくれ」
口から、パンの食べかすを飛ばしながら、指差したその先にチャルの分の夕飯が、きちんと盛り付けされている。
チャルはベッドを降りて、二、三度頭を回して背伸びをした。中途半端な睡眠は美容に良くないのにな、と思いながら席に付いた。
「どうも、人出が足らんらしい」
センテスは、そう言ってミルクを一気飲みした。
「外の見回りに出てくれと言うんだが、断ってやった」
「はあ」
チャルの脳裏に、昨晩の惨劇が映し出された。またチャルは首を振って、手の中のパンに集中しようと心掛けた。
「じゃあ、見張り塔でもって言うんだ。おいおい、戦争が始まるのに救急部は見張り塔なのか、って聞いたんだが、どうも曖昧な返事だ。あっ、それは出汁がらだ。食うなよ、明日も使うんだから」
チャルは眉を潜めて、スープの中にあった大きな骨を傍らの鍋に戻して、聞いた。
「私達、まだ用が無いんですか?」
「それよ、それ」
センテスは、白衣の袖で口を拭いながら言った。
「昨日までの話だと、本部が別の場所に移ると言っていたのに、まだ、どこになったのか聞いていないんじゃよ。でも、ここには第三師団とおしゃべり小将しか残っていないし、ボウも一度も来ていないようだ。我々や青少年隊は孤立状態なんだ」
「孤立?」
「まあ、なるようにしかならん。怪我人が出たら、見張り塔の上まで持ってくるのか、って言ったが答えが無いんでな、つい、登ってやると答えちまった」
突然、静寂の法則を打ち破るように、こつりこつりと足音が、廊下を響き渡った。リィナは鉄格子にしがみ付いて、顔を押し付けるようにして音の行方を伺った。
二つ三つの足音が、こちらに向かってくるのが分かる。ここへ来て初めて聞いた、鼓動と衣擦れ以外の音に、リィナは耳を澄ました。やがて、松明の影に人の姿が現われた。
二人の兵士が、担架に一人乗せて、こちらに向かってくるのが見えた。担架に乗った人は、弱々しい腕をだらしなくぶらさげている。とても白い腕が、リィナの目の前を過ぎる瞬間、リィナは思わず叫んだ。
「ゲンツ!」
ゲンツに間違いなかった。リィナは腰を上げて、鉄格子の隙間から腕を伸ばした。担架を持つ兵士の一人が、リィナの顔面の、鉄格子を蹴り上げた。リィナは拍子に倒れ込み、それでも尚、鉄格子に掴まり直し、
「ゲンツ、ゲンツ!」
と叫んだ。廊下をリィナの声が突き抜けるように響き、だが、だらしなくぶらさがった腕は、僅かに二、三度痙攣のように反応を見せただけであった。
「ちょっと、どこへ行くの?ねえ!何故?どうしたっていうのよ!」
鉄格子に額を擦り付けるように、リィナは叫んだ。震える拳で、何度も鉄格子を叩き付けた。虚しく響き渡る音に、尚もリィナは叫んだ。
次第に、咽喉が痛くなったので、リィナは叫ぶことを止めた。もう、足音も何も聞こえない。リィナは悔しくて、泣きそうだった。幻の中で過ごしているような気がしてならなかった。しばらくして、放心するリィナを、石の壁を叩く音が呼んだ。
すぐ後ろの壁を叩く音のようだ。はっとして、リィナは耳を澄まし、確信して、その壁を叩き返した。
「あんたかい?今、叫んでいたのは……」
しゃがれた男の声だった。リィナは無言で答えた。
「あの担架の男を知っているのかい?」
声の主はゆっくりと質問した。リィナはやはり無言だった。
「どうでもいいことだが、あの男は、……あんた、あの男の病気が、どんな病気か知っているかい?」
「ゲンツは……、まず貧血のように倒れたわ。そして、立ち上がれなくなって、手足が痺れるようになって、……」
「何も知らねえんだな。あんた、何も分かっちゃいねえ」
「どういうこと?」
「俺は、ここに一年前からいるから知っている。ああいう奴らがここを通り過ぎるようになったのは、二十ヵ月前くらいからだ。あいつらは、ある共通した事柄で結ばれている」「それは?」
「ゴル=ニチバさ」
「……」
「ゴル=ニチバには『魔法の薬』がばらまかれたのさ。一嗅ぎしただけで、獣だろうが植物だろうが、無論人間だって皆、あんな風になっちまう『魔法の薬』なんだ」
壁の向こうでは、けたけたと笑い声が響いた。
「何とかっていう師団長は、自分の所の師団が、その危ねえ『薬』で全滅したっていうのに、勲章貰ったそうじゃねえか。狂ってらあ。あの『薬』はな、ありゃ、メルティーヌ側から撒いたんだ。敵さんの発案じゃない。なんたって、俺が、この手で撒いてやったんだから、間違い無え。味方で味方を殺したんだぜ、正気の沙汰じゃねえ。あの男が何をしたか知っているか?俺には分かるぜ、あいつは何も知らねえ。知らねえだけさ。自分が、まさか、信頼していた仲間に、あんな目に合わされているたあ、知らねえんだ」
声の主は、またけたけたと、乾いた笑い声を響かせた。泣いているようにも聞こえた。リィナは、ただ、静かに涙を零すべきか、それを悩んだ。
ナトは呆然と、立ちすくした。工場の門を叩く者がいる。傍らに書簡を携えた兵士が、馬を走らせてきたのだ。
「第八師団長ドゴバー=スキテンより、ナト=コミュ小将へ進言!」
馬を門のすぐ脇に止め、兵士は二度そう叫んだ。門番が受け取ろうとすると、兵士は大きくそれをかばい、尚叫んだ。
「事態は急を要すとのこと。ナト=コミュ小将はいずこへ?」
そのナト=コミュは、工場二階の食堂の窓から兵士の様子を伺っていた。ふうと溜息を洩らし、その場で二、三度廻り、傍にいた兵士を呼び付けた。
「門の外は?」
兵士は敬礼してから、ゆっくり答えた。
「囲まれています。第八師団でしょう」
「ドゴバーめ、なんと義理堅くて、融通の効かぬ男だ」
いくらナトでも、この期に及んでドゴバーの策が分からぬ筈も無かった。あいつは、義理堅くて、融通の効かぬ男だ。そして、ここに来たということは、ボウ大将軍やフジルのいる本隊には戻れない、すなわち裏切ったということだ。
第八師団は、第一、第五師団と共に武器の輸送を請け負っていた。第一師団はダバ中将の師団で、ダバはこの武器を持って国境を越えたかった。第八師団は、恐らくダバの味方に付いたのだろう。総数二対一でダバ中将は勝利し、国境外へ逃れた。
ドゴバーは、ボウの仕切る現体制に反感があった。更に、一年前のゴル=ニチバ戦争よりこっち、フジルとも反発するようになった。あいつは軍にいながら、無論これは表面化はしていなかったが、反体制主義に染まったのだ。
だが、同時に義理堅い男だ。軍人としての誇りも捨ててはいなかった。裏切りという、最も許すまじ行為を、恩ある師に対して行なった償いを、つまり反乱分子であるこの第三師団を、その手で仕留めるべくここに現われたのだ。恐らく、共倒れも覚悟のうちだろう。
「ナト小将」
「はい」
「指示を」
「そうだねえ」
ナトは、泣きたくなった。帰って、温かいスープでも飲んで、早いとこいい夢でも見たかった。
「君ならどうする?」
「は?」
「否、ね、巧く切り抜けたいんだけど、どうも、正念場というより、……崖っぷちのようでね、否、こんな弱気な発言は無論まずいんだが、どうだろ、君ならどうするか」
「素直に言ってもよろしければ」
「どうぞ」
兵士は敬礼をし直して、言った。
「自分も同感であります」
「登る意味、無かったな。もう終わりだ」
センテスはそう言って、見張り塔から見下ろす、夜の草原を指差した。門の向こう側には、びたりと軍隊が取り囲んでいた。
「無意味でしたねえ」
チャルは、なるべくセンテスの、超然とした口調を真似たかったが、軍隊に実際睨まれていると、いい気持ちはしない。
「心配するな、医者と看護婦は何処へ行っても待遇はいいんだ」
チャルの声が震えていたのを察したセンテスは、そう言って笑った。
「本当ですか?」
「親父も捕虜だった。でも、医者だったからすぐに職にありつけたのさ。向こうの国とは訛りが違うらしいから気を付けないとな。向こうでは、何でも伸ばして発音するんだ。わしの名前も、セーテイス、とかになるんじゃ……」
「でも、あれ、うちの軍ですよ」
チャルは望遠鏡でセンテスの肩を叩いた。センテスも覗いてみる。
「あらら」
「どうなるんでしょうね」
「何だか、面白くなってきたねえ」
その瞬間だった。
センテスの背中の方、工場の奥が閃いた。