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二十一

 センテスがゆっくりと答えた。
「あれは不幸な事故だった」
「事故?」
チャルは振り返り、今度はセンテスにしがみ付いた。
「ねえ、嘘でしょ?だって、昨日だって、ほら、私、会ったもの。ゲンツが言ったもの、私に、いなくなったりしないって」
「その書類は私が書いたものではない」
チャルは、ほっとして、膝から崩れた。
「そっか、びっくりしたな。だって、ゲンツの顔が思い出せないんだもの」
チャルは、目を潤ませて、床を見つめて笑った。手の中の嘘の書類をもう一度広げた。殉隊証明。収容病院の欄、そこでチャルは目を止めた。ノース地方基地内。今日の日付。
「チャル、それを返すんだ」
センテスが、急かすように肩を叩いた。
「ねえ」
「何だ?」
「これは、何のための書類?」
チャルは、床を見つめたまま聞いた。
「ゴル=ニチバから帰還後、すぐにここに収容されたって、どうしてこんな嘘を付く必要があるの?何故、死んだことにする必要があるの?」
「チャル!」
センテスが声を上げた。
「これは重要な書類だ。君にどうこう言えるようなものじゃない」
「なんで、ゲンツが?ゲンツの名前をどうして使うのですか」
「チャル!」
 チャルはすかさず、センテスの手の中の、残りの書類も奪い取って次々と広げ始めた。堪り兼ねて、兵士が飛び出し、チャルの脇腹を蹴り上げた。チャルは書類を散らして、扉に叩き付けられた。
「こら、止め給え」
「このお嬢ちゃんは、何も知っちゃいねえ」
「止めろ」
 チャルは、口の中の唾液を吐いた。ドゴバーを見上げて、声を震わせて言った。
「何が、起こったの?ゲンツの、……病気に関係あるの?」
ドゴバーは目を大きく開けた。
「君は、あの病気を見たのか?」
「知っているのね?貴方、あの病気を知っているのね!」
ドゴバーはその目を逸らした。
「そうだ、先刻センテス先生が、『事故』だと言った。どういうこと?なんで、あの病気を隠す必要があるの?」
「君は頭が良すぎるようだ」
 ドゴバーは、溜息を二度吐いて、チャルの前に立ち、言った。
「ゴル=ニチバで、ナト=コミュがロンサという学者爺と結託して行なった悪業なのだよ。そう、あれは、人災だった」
「あの病気が?」
「だから、人目に触れることを避けたかった。何せ、あれは強烈だからな。そうは思わんか?」
チャルは、ドゴバーの後ろに立っているナトを見据えた。ナトは、けたけたと笑っていた。
「人間、遅かれ早かれいずれ死ぬんだ、いつ死んでも悪くはなかろう」
「ふざけるな!」
ドゴバーが責め立てるように叫んだ。
「ふざけてなんぞいないさ。ドゴバー、お前も見ただろう。あの圧倒的な死を。悔しかろう、憎かろうて、なあ。仲間は全滅だった。確かに、ああなることを俺とロンサは知っていて黙っていたさ。だが、あいつはどうだ?フジル=ティトルは、そうさ、あいつも知っていたとしたら?自分の妻の命まで奪われたのに、知らぬふりで勲章までもらったのだとしたら?お前も薄々気付いていたろう?あいつは、仲間を見殺しにしやがったんだ。なあ、違うか?」
「黙れ、黙れ!」
「違いやしないさ、なあ。フジル=ティトルが、この期に及んでまさか、あのボウの野郎と組むだなんてな。そうだろう?結局、皆、我が身が可愛いのさ。あいつは生き延びていやがる。そして、今度はボウの味方をしやがるんだ。なあ、ドゴバー。だからお前は、ダバ中将を逃がしたんだ」
ナトは目を見開いて笑った。ドゴバーは右拳を振り挙げて、ナトの顎を砕く程の勢いで弾いた。吹き飛ばされ、傍らの兵士に倒れ掛かり、尚も顎を上げて笑う。
「感謝しろよ。『薬』を吸った奴らを、俺が弔ってやったのさ。あのまま、枯れ木のようにくたばっていく姿は、見るに耐えねえからな。口から糞をぶち撒けるんだぜ、目ん玉の回りから体液を滲ませたり、血の小便を漏らしたり、生きながら指先にウジ虫を湧かせたりするんだぜ。俺が、ゴル=ニチバの奴らを掻き集めて、工場の地下室にぶち込んで、善良な市民の平和な暮らしを邪魔しないようにしてやったのさ。奴らも、今頃はきっと瓦礫の下さ。糞、ぶち撒けてな。ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ……」
 ドゴバーは、腹を抱えて笑い転げるナトを、踏み潰すように蹴った。ナトは黒い血の固まりを吐いて、そのまま動かなくなった。
 チャルは放心、時を止めるように目線をナトに合わせたまま、立ち尽くした。薄く開いた口から、
「そう」
と一言、零れたかと思うと、チャルは扉を叩き開けて、外の暗闇へと飛び出した。
「待て!」
兵士の制止も間に合わなかった。追い掛けようと小屋から足を踏み出した兵士を、
「止めろ!」
とドゴバーが制した。ドゴバーはゆっくりと首を横に振った。
「所詮、女の子だ」
と、センテスは嘆くように言った。
 チャルは、暗闇を走った。工場の焼け跡には、まだ松明の灯りが残っているらしい、それを目掛けた。闇は恐い。逃れるように、灯りを求めた。工場の石壁が、瓦礫となって足元を埋めている。つまずきながら、よじ登った。がらがらと崩れる石を飛び避け、飛び避け、松明を掴み取ってぐるりと見回した。
 工場の半分が残っていて、やけに静かにそこに居座る。チャルはゆっくりと近付いて、兵士の死体を見付けた。ボウガンを握り締めたまま、頭を石の塊に潰されている。チャルは一瞬目を背け、またはっとして目を懲らした。
 確かに、地下へ続くらしい階段を見付けた。が、崩れ落ちた天井がその先を塞いでいる。チャルは死体を跨いで、瓦礫の隙間から奥を伺った。が、何も見えない。
 はは、見えないじゃない。
 チャルは急いで、松明を脇に置いて、瓦礫の一つを引き抜こうと触れた。少し動かしたところで、がらがらと上から石が落ちてきた。すかさず身を引いて、転がってきた、ほんの拳程度の小石を見て、チャルはふふと笑った。馬鹿みたい、と呟いてその石を遠くに投げやった。
 ゲンツは、大丈夫だと言った。こんな所にいる筈が無い。昨日だって、ちゃんと病院のベッドの上にいたじゃないか。一度でも、疑ったのが馬鹿みたいだった。だって、約束したもの、いなくなったりしない、いなくなったりしない。
 ふと、チャルは顔を上げた。もう一度、先刻投げた石の行方を見た。
 工場裏の通用門が、開いたままになっている。チャルは続いて、今来た道を振り返ってみた。書斎小屋の灯りが見える。チャルは震えた。
 誰も気付いていないようだ。あそこから、犯人が逃げたに違い無い。
 そう決断してから、チャルの行動は早かった。松明と、先刻の兵士の握っていたボウガンを取って、もう一度だけ振り返り、後退るように歩き出した。瓦礫に足を取られながらもチャルはまっすぐ通用門を目指した。チャルは門を出て、森の暗闇に包まれた。
 闇の肌触りの悪さ、チャルは震える右手でしっかりとボウガンを握り締めた。湿った空気と、森の持つ独特の匂いがチャルを不安にさせた。チャルは困惑している。どれが真実で、何が信じられるのか、それが分からない。生まれてからずっと、こんな弱気になったことは無かった。チャルは頭を振って、悪夢を払い除けたかった。
 そうか、今、自分は犯人を追っているのではない。自分の運命から、逃げ出したくて、今まさに逃げ出したのだ。
 振り返れば、嫌なことばかりが目に付く。一所懸命に生きてきたのに、気が付けばもう、誰も認めてくれないんだ。そうすることが当たり前になった。偉い子だ、賢い子だ、頭が良くて、しっかりしていて、真面目で、素直で、一所懸命で、でもいつの頃からか、誰も誉めてくれなくなった。
 青少年隊に入れば、誉められると思った。本当は国の未来なんてどうでもよかった。ゲンツの近くにも行きたかった。ゲンツにも誉められたかった。でも、実際に入ってみても、ゲンツはいないし、嫌なことばかりだ。
 誰か、分からないけれど誰かが、邪魔をしているんだ。行く手を遮り、幸せを奪って、誰かがどこかでほくそ笑んでいるのだ。何をしたっていうのよ、一体。
 もう一度、大きく頭を振った。一所懸命、一所懸命、そうすれば、きっと報われるだろう。チャルはそう信じた。

 チャルはふと、足を止めた。不慣れな夜の森の中を、誘われるように突き進んでいた、その獣道のその先を、松明の灯りで照らした。
「誰?」
チャルはゆっくりと前に進んだ。右手のボウガンを握り直して、もう一度聞いた。
「誰?」
 灯りは道の脇で座っている少女と、その前に立つ少年を照らした。
「チャル!」
少女が先に口を開いた。短い茶色の髪、リィナだ。
「リィナじゃない!どうしたの?」
チャルは更に足を進めようとした。すると少年は、リィナとチャルの間に割って入った。「トト、彼女は私の友達なの」
リィナはトトの腕を掴んで言った。トトはチャルを見据えている。
「君、武器を下ろしてくれないか」
チャルは、右手のボウガンの先を向けていたことに気付いて、下ろそうと思った。
 トトと呼ばれる少年の後ろに、見覚えのあるリュックがある。それを見付けたチャルは、右手を止めた。
「ねえ、チャル、どうしたの?」
「貴方、誰?」
「え?」
チャルは素早く、もう一度ボウガンを構えた。
「貴方、誰?なんでここにいるの?どうしてリィナがここにいるの?」
トトはチャルをじっと見ている。松明を投げ置いて、チャルは両手でボウガンを構えた
「貴方、この国の人間じゃないのね」
チャルの唇が震えた。
「工場を爆破したでしょ」
「えっ」
リィナは驚いた。そして、トトの顔を見上げた。トトは冷たい目をしていた。
「リィナをどうするつもり?」
「どうするって、チャル、違うよ。トトは私を助けてくれたの」
「助けて?」
「そう。……そうだ、チャル!私、ゲンツを見たよ!」
 チャルは、瞬きを二つした。
「何?」
「ゲンツを見たの、あの、大きな建物の地下室に閉じ込められていた時に」
「何処の?」
「ノース地方軍基地の工場の地下室だよ」
トトが付け加えた。
「嘘」
とチャルは零した。リィナは首を横に振った。
「ねえ、チャル。私、何がどうなっているのかさっぱり分からないの。夕方、家に帰ったと思ったら、気を失って、気が付いたら石造りの部屋に入れられていて、ゲンツが兵隊さんに連れられて、担架でどこかに運ばれていて、隣の部屋の人が、ゴル=ニチバがどうとか、『魔法の薬』がどうとかって言って、そしたら急に爆発があって、ゲンツが助けてくれて、逃げていたら足を挫いて」
「嘘言わないでよ。なんでゲンツが、あそこにいたの?」
「分からないよ。でも、いたんだもの」
「……分かった。貴方、私を騙す気でしょ」
「え?」
チャルはふふと笑った。ボウガンを持つ手が震えている。
「分かったわ、分かっちゃったわ、貴方、そこの男と二人で、私を騙す気でしょ」
「何言っているの?チャル」
「とぼけないでよ。リィナ、まるでゲンツが不治の病にかかったようなことを言って、爆発で瓦礫の下敷きになって死んだとでも言いたいんでしょ」
「あの『薬』を吸って死ななかった奴はいない」
不意にトトがそう呟いた。
「トト、何て言ったの?」
リィナの質問に、トトが答えるより早く、チャルが言った。
「黙りなさい!敵国のスパイのくせに!リィナ!貴方、地下室にいたんでしょ?そこの男に殺されそうになったのよ、貴方、分かっているの?」
「本当?」
リィナはトトの腕を引いた。トトは無言で頷いた。
「じゃあ、ゲンツはどうなるの!まだあそこに……」
「茶番はそこまでにして!」
 チャルは叫んだ。頬いっぱいに涙を流した。
「私を騙そうったって、そうはいかないわ。そうか、二人とも最初から仲間だったのね。リィナ、貴方、私に嫉妬したんでしょ。お生憎様、ゲンツは私を愛しているわ。いなくなったりしないって、約束したわ。だから、いなくなったりしない」
「チャル!聞いて、私の話を聞いて!」
「貴方のお父さんも嘘吐きだったそうじゃない。いい、貴方のお母さんはね、ゴル=ニチバで亡くなられたそうよ。貴方のお父さん、フジル=ティトルが殺したんだってね。貴方、何も知らなかったのよ」
「何言っているの?チャル!しっかりしてよ!」
「しっかりしているわ。貴方よりもいつも優秀だったわ。成績も、かけっこだって、なのに何故、貴方は人気者なの?何よあの笑顔は!私、貴方の笑顔に騙される所だったわ。本当は、私を憎んでいたんでしょ?だから嘘を吐くのね」
「私、嘘なんか言っていない!」
「じゃあ、貴方のお父さんがゲンツをあんな目に合わせたってことね。ゴル=ニチバで、『魔法の薬』で、ゲンツを病気にさせて、そしてもう二度と治らないって言うのね。あの瓦礫の下に埋もれているって言うの?分かった、貴方が、そうしたんだ。そうだ。貴方は私を親友だとか言っていたけれど、本当は心の奥底から嫌っていて、ゲンツを私から奪って、私を苦しめようっていうのね」
「チャル!チャル!チャル!」
「そう、貴方はいつでもそうやって、透き通った瞳で私を見た。貴方は嘘を吐かない。ゲンツは死んだってことでしょ。そして心の奥底で笑っているの?なんでその心の奥底を見せないの?その瞳を汚してご覧。できるものならやってみなさい、できないでしょ?やっぱり嘘吐きだわ。私が、悲しむと思った?泣くと思った?私は、貴方が思っているように悲しんだり、苦しんだりしないわ」
 チャルの両腕の中の、ボウガンが裏返った。トトは察して、飛び出すようにチャルの所へ駆けた。
「貴方の笑顔が、大嫌いだった」
 トトは間に合わなかった。チャルの喉元に当てられたボウガンは矢を放ち、小さな首を一瞬で吹き飛ばしたのだった。
 チャルの大粒の涙が宙を舞った。暗闇に消えてゆくチャルの、口元が微かに微笑んだのを、リィナは間の当たりにした。

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