花
二十二
トトはチャルの、僅かに残った首筋に触れ、脈が弱くなるのを確かめた。諦めて、立ち上がり、リィナを見た。
「ねえ」
リィナは小さな声で聞いた。体まで、小さく見えた。
「チャルは?」
その小さな体が震えているのが、暗闇の中でもはっきり分かった。リィナはじっとトトを見ている。トトは無言でリィナに近付いた。リィナは震える唇をぎゅっと噛み絞めた。
「来ないで」
リィナは弱々しく立ち上がった。右足首を曲げたまま後退った。
「来ないでよ」
口調を強めて、リィナはトトに言った。
「貴方、誰なの?チャルに何をしたの?私をどうしようっていうの?」
トトは尚もリィナに近付く。リィナも下がった。背中が木にぶつかって、トトがその肩を両手で挟み込んだ。リィナは、暗闇に浮かんだトトの目を見た。淋しそうな目で、トトは言った。
「あの子が言った通り、僕はこの国の人間じゃない。工場を爆破したのも僕だ」
リィナは唾を飲んだ。
「御免、騙すつもりはなかったんだ。ただ……」
トトはリィナを見つめて、堪らなくなって目を逸らした。肩から手を離して、一歩後ろに身を引いて、
「さよなら」
と言い放って、リュックを取りに走った。
遠くで、人の声が響いた。トトは慌てて山裾を伺った。松明の群れが見える。ノース地方軍基地にいた部隊が動いたようだ。山を登ってくる。トトはリュックを担いだ。
「トト!」
リィナは木に寄り掛かったまま、ただこのままじゃいけないと思って、トトの名を呼んだ。リュックを手にしてトトは振り向いて、笑った。
「置いて行かないでよ」
リィナは涙が込み上げてくるのを止められなかった。
「ねえ、チャルは?チャル、チャル、そこにいたでしょ、ねえ、トト。なんで、チャルは怒っているのかな。私、悪いことをしたの?ねえ、教えてよ。置いて行かないで。置いて行かないでよ」
リィナは誘われるように、トトと擦れ違い、チャルの所へと歩み寄った。トトは慌てて、その手を捕まえた。
「リィナ!」
「放してよ!」
強くリィナは手を振り解いて、駆け出した。打つ伏せに横たわるチャルの頭を包み込むように座り込んだ。
「チャル、チャル!」
リィナはゆっくりと手を伸ばして、うつむくチャルの顔を持ち上げようとした。首を貫いた矢にも触れた。指に力が入らない。それらはぴくりともしなかった。リィナは、指に触れた、ぬめりとした感触を反芻した。
「チャル、朝だよ。ねえ、ねえ、ねえ」
「リィナ、止すんだ」
「チャル、学校、遅れると怒られるんだ、すごく怒られるんだよ、チャル、チャル、チャル、チャル」
「リィナ!」
堪り兼ねたトトが、両腕を抱えてリィナを引き立たせた。山裾で蠢く松明の群れを伺う。やはりこちらに向かっていた。
「ねえ、トト。何があったの?トト、トト、ねえ、教えてよ。トト、何があったの?」
「しっかりしてくれ。リィナ!」
「そうだ、ゲンツ。ゲンツは何処へ連れて行かれたんだろう。そんな!トト、貴方が爆破したの?ねえ、チャル?ゲンツがいたのに?ねえ、トト!」
「人がいたなんて思わなかったよ!君が居たことも知らなかった」
「私だって知らない!なんで私、あそこにいたの?ねえ」
「知らないよ、ただ、僕は誰も殺す気なんて無かったし、あの爆破作戦はあまり意味を成さなかった」
「放してよ!」
「否、放さない。落ち着いて僕の話を聞いてくれ。僕は確かに、隣の国からスパイとしてやってきた。ノース地方軍の秘密基地を爆破するためにね。でも、その前は、ゴル=ニチバに住んでいたんだ。本当だ。メルギッチ帝国領に逃れたのが一年前で、この任務が終わったら西に行アうと思っているのも、本当だよ」
「なんで、貴方はここにいるの?なんで爆破しなくちゃいけなかったのよ」
「軍隊の人間の考えていることなんて知らない。僕はただ……」
「ただ……?」
トトは言葉を詰まらせて、手を放した。体の支えが取れ、よろけたリィナは振り返り、逆にトトの腕にしがみ付いた。
「貴方は、私に、何かを隠している」
「……」
「何を、……隠しているの?私、馬鹿だから、言ってくれなきゃ分からない」
「僕は、敵を取りたかった」
「敵?」
「でも、今は、……誓ってもいい。もう、そんなことは思っていないよ。馬鹿げていたと思う。つまらない感傷だった」
「敵って?」
「……僕は、両親を殺されたから……」
「誰に?」
「もう止めよう。だから、こんなこと、だって、下らないよ。僕自身、やり場の無い怒りを、ぶつけようと無理をしていた。だから……」
「誰に殺されたの?この国の軍隊の人?」
リィナは、ようやくチャルの口走っていた言葉を振り返ることができるようになった。トトは、冷静になっていくリィナに怯えた。
「ゴル=ニチバで?」
それは、辿り着いて欲しくない結論だった。
お父さんは、ゴル=ニチバで、『魔法の薬』を使ってたくさんの人を殺したんだ。。母さんも殺した。トトの両親も殺した。ゲンツも殺そうとしたんだ。そして、私には、ずっと嘘を吐いていたんだ。
トトは正直過ぎた。言葉を詰まらせて、リィナから目を逸らし、腕を掴んでいたリィナの、震える指を丁寧に外した。
「さよなら」
トトは、放心するリィナを振り返らなかった。ゆっくりと足音を闇に消し去るようにして、トトは歩いた。
「待って」
リィナは、立ち尽くしてそうはっきりと告げた。トトは足を止めた。
山を登る松明の群れが、二人には見えていた。それが、軍であることも、よく分かっていた。
「私、トトのことが好き」
トトは振り返らない。リィナは透き通る声で続けた。
「答えて欲しいの。トトは、私のことを、好き?」
トトはゆっくりと振り返った。リィナが顔を上げた。
「待って、答えなくていい」
暗闇の中で、二人の目は繋がった。
「キスして」
「逃げよう、リィナ」
「何処へ?」
「何処か、遠い所へ。何処か、過去の無い所へ」
「過去?」
「過去はいつでも、圧倒的な支配力を以て、今の自分を押し潰そうとするんだ。だから、逃げよう、リィナ。どこか遠い所へ。二人の過去が届かない、明日へ逃げよう。きっと、上手くいくよね、きっと二人でなら、生きていけるよね。過去が捕まえに来る前に、過去が立ちはだかる前に」。
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