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二十三

 森の小道は曲がりながら、登り下りを繰り返した。二人はしっかりと手を繋いで、振り返らずに闇を突き進んだ。
 捕まる訳にはいかなかった。リィナには、全ての事実が否定されたような気がしていたからだ。トトが強く掴んでくれているこの手の感触が、唯一信じられた。右足の痛みを堪えながら、リィナは必死にトトの後に続いた。
 トトは方向を見失っていた。空は真っ暗で、星も、山陰も見えない。左手でか細く揺れる松明の炎だけでは、不慣れな山道で迷わない筈が無かった。ただ、トトは傾斜だけを頼って、この森を山側へ、山側へと進んだ。突き刺すように生えている笹を踏み倒して、枝やつるを払って、背中のリュックの重みを耐えながら坂を登った。
「あっ!」
リィナが後ろで、声を殺しながら叫んだ。トトは振り返り、やはり驚いた。
「燃えている……」
 森の奥で、明るく揺らめく点のような炎があった。よく目を懲らしてみると、そこかしこに炎が上がっている。星の瞬きを真似るように点々と炎が連なって、不細工な直線を描いているのが分かった。トトは辺りを見回した。
「どうなっているの?」
「分からない。何が起こっているんだ?」
トトはリュックを下ろして、中から望遠鏡を取り出した。そして、炎の連なる様子を伺った。
「ひょっとして、『火炎兵団』か?」
「何?それ」

 フジル=ティトル作戦総帥は、じっと目を閉じたまま、椅子に深く腰掛けて動こうとしない。同じテントの中で、ボウ=ダウカ大将軍はうろうろと大きな机の回りを歩き回っている。机の上では、ランプの灯が地図の上に影を落としていた。
「おい」
と、堪り兼ねたボウが口を開いた。新品の軍服が、まるで新米の兵士のようで滑稽である。そう思いながら、フジルはゆっくりと目を開けた。
「今、山に踏み込むのは得策じゃあない」
「何故だ?私の奇襲戦法は間違っているのか?」
 フジルは重い腰を持ち上げて、ゆっくりと歩み寄って、入口の布を持ち上げた。ノーサ=タム山の山裾で揺らめく炎は、勢いに乗って山を駆け登っていた。
「ダバ=ガジャは内通していた。つまり、作戦は全て敵国に知れていたのだ。奇襲は成立しない。種の暴かれた手品は、興醒めするんだよ」
そう言って、フジルは山の稜線を指した。
「ほっほ、これ見よがしに灯りを灯している。敵もさる者といったところか」
「いつまでここで待つと言うのだ。夜明けか?冬か?メルギッチの皇帝がくたばるのをか?」
フジルは答える代わりに、振り返り、ボウを見据えた。
 ボウは震えた。フジルの目のような、獣にも似た鋭い眼差しを、ボウは知っていた。まるで、幼い頃に見たあの奴隷達の目と同じだった。
「そろそろ行きますか」
フジルは笑った。淋しい笑顔だった。

 トトは焦っていた。額ににじんでいた汗を拭った。
「どうやらこの山はノーサ=タム山のようだ。どちらへ行くべきか」
「山を越えれば……」
「メルギッチ帝国に逃れるか、それもいいが……」
「どうしたの?」
「どうやらここは戦場のようだ」
 トトは山の頂上を見た。微かに明るい。恐らく物凄い数の松明が、夜空を照らしているのだろう。
「どうやら、奇襲ではないようだ。両方ともしっかり布陣を完了させている」
「戦争になるの?」
「山を吹き下ろしていた風が、今日は吹かない。しかもこの頃は、雨が降らなかったから、炎は誰の予想よりも早く山を登るだろう」
「雨でも降れば……」
 リィナは空を仰いだ。雲が一面を覆っていた。が、ちょうど山の頂上の辺りだけ、その雲が途切れている。その小さな隙間から、綺麗に縦に並んだ六つの星が、まるでこちらを覗き込んでいるように顔を見せた。
「湖は?」
ふと、リィナはそう呟いた。トトは考えて、首を振った。
「君でも登れた山道だ。恐らく、もう……」
「胸騒ぎがする」
「えっ?」
「嫌な予感がするの。何かが起こるような……」
トトはもう一度考えた。
「確かに、この斜面からは尾根を一つ、隔てているな。とりあえず、そこに逃れるか」
 二人は東に進路を取った。険しさを増す斜面を、丁寧に進む。その間も、決して手を離さなかった。

 メルギッチ帝国軍の本隊を指揮しているのは、テガマ=ニニッツ将軍である。山頂まであと少しの所に陣を構え、望遠鏡を片手に山頂と、作戦本部の小屋とを行ったり来たりしていた。頂上から帰ってくると、小屋の前で、兵士達が大人数でもめていた。
「どうしたんだ?」
「ああ、将軍。先程捕らえましたこちらの一個師団が、皇帝閣下に会わせろと」
「退け」
 テガマは、兵士達の間を分け入って、その捕虜達の前へ出た。
「何者だ?」
その師団は、実に奇妙な格好をしていた。缶詰のような鉄の衣服を纏い、手に手に筒を持っている。一人だけ、装備をしていない、普通の兵士が前に出てきた。士官クラスの人物だろう、禿かかった頭を、偉そうに持ち上げて行った。
「ダバ=ガジャとメルティーヌ王国軍第一師団だ」
「ふん」
と、テガマは鼻から息を漏らして、頷いた。脇で息巻く兵士達に、
「客だ。もてなせ」
と伝えて、武器を下げるように命じた。
「その、後ろの連中は、それはどういうジョークだ?」
「私の部下だ。第一師団と、最新兵器一式さ」
テガマはもう一度、顎を上げた。そして、振り返り兵士達に装備を外すように、命じた。兵士達は、やれやれと声を漏らした。
「私は、メルティーヌ王国軍きっての、強者と聞いていたぞ」
「それはどういうジョークだ?」
「第五師団かと思った」
「随分と有名だったんだな。フジルは」
「そいつは、今回の作戦には?」
「あれは、ボウ=ダウカと組んだ。多分、向こうの作戦を指揮しているだろう。だがな、第五師団は出て来ない。我々が一掃したからな」
「何?」
 テガマは兵士を見回した。そして、もう一度、
「ふん」
と息を漏らした。
「覚えておけ。皇帝閣下の御好意で受け入れてやるのだからな。俺は、お前のような労働力にも、食肉にもなりそうにない軍人は嫌いだ。とっとと隠居してくれ」
「そいつは、つれないな。せめて、この作戦にぐらいは加えてくれ。この兵器の使い方を知っているのは我々だけだ」
「作戦の指揮は私が取っている。閣下は別件で忙しい。閣下の他に、私に偉そうなことを抜かす奴は、便所掃除と相場が決まっている。以上だ」
 テガマは言い放ってその場をとっとと離れた。ダバは舌打ちをして、振り返った。そして、副長を呼びつけ、小声で聞いた。
「どう思う?」
「おかしいですね。ダグラートには『神の力』は無かったのでしょうか」
「ロンサ爺が、すんなりと在処を答えるとは思わなかった。奴は、要は戦争をさせたかっただけなんだろう」
「でも、ここに皇帝がいないのは、説明がつきません」
「ひょっとして、本当に?」
「どこかで、見付けたとか……」
 不意にメルギッチ兵が二人の間に割り入るように、
「宿舎へご案内します」
と言って、ダバの隣で敬礼をした。ダバも慌てて敬礼で返した。
「それから、ダバ中将は作戦本部へ。テガマ将軍が、お呼びです」
「てっきり、嫌われたかと思ったんだがな。こんな余所者の力を借りるとでも?」
兵士は困ったように小首を傾げてみせた。
「あの方は叩き上げですから、忠誠以上に信じられるものが無いと、そういうことを言いたかったのでしょう」
「成程、我々は忠誠も馬糞も一緒だからな」
 兵士の困った様子を真似てみせて、ダバは第一師団の兵士達を振り向いた。ダバは、師団の面々と別れ、取って付けたような作戦本部の小屋へと連れられた。小屋の中では一個のランプと大きな地図を囲んで、テガマや軍の偉そうな方々が顔を並べている。その輪の中へ、ダバは通された。
 机の上の地図に、石ころ程の大きさで示された部隊の編成が見える。暫定国境のぎりぎりに連なるメルギッチ軍の様子が、蟻の群れに似て滑稽だった。
「何処を通ってきた?」
テガマは顔を上げず、じっと地図上の小石の群れを眺めている。
「炎に追われるように、ひたすら山を登った」
「ノース地方軍基地の爆破作戦はどうなった?」
「私は確認していない。ボウ=ダウカのクーデターが早かった所為で、当初の計画から大幅に変更せざるを得なかったのだ。私は未明には基地を離れ、第五師団の行方を追った。それから山に入ったのだ」
「フジル=ティトルが健在だと言ったな」
「メルティーヌ王国には戦略家がいない。山に火が放たれた時点で、奴が指揮をしていることが分かったんだ。奴は被害を最小に食い止めようとする。一見、派手目の作戦だが、実の所は時間稼ぎに過ぎない。つまり、こちらの軍を囲むための、な」
「囲む?」
「火が退けたところで一気に攻め入るつもりだったろう?奴はそれを待っている。火のせり上がる速度に合わせて、敵の前線も山を登っている筈だ。だが、それは本隊じゃあない」
 ダバはぐいと顎を上げた。
「頂上を取ったからっていい気にならん方がいい。この斜面は二つの大きな尾根に挟まれているだろう?この尾根を先に取った方がこの勝負を制する。西と東……」
ダバは両手を延ばし、メルティーヌ王国側から尾根をなぞり、テガマの方、山頂までを示した。ダバはその時、その右手の指の、横に置かれていた小石を見た。
「何だ、これは?」
「む、……ああ、それは」
 テガマは、一瞬だが、言葉を詰まらせたのを後悔した。ダバは広い額の下の眉毛を、ぴくりと持ち上げた。
「いいのか?」

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