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二十四

 夜は更けてゆく。誰の予想よりも早く、火はノーサ=タム山を登った。焼かれる山は、何故か風の一つも吹かない。まるで、諦めたかのように、そこに横たわった。
 次第に乾きを増す空気、地上が熱を帯びていた。空を一面に覆っていた雲が少しずつ擦れてゆく。覗いた星達の中で、ノーサ=タム山の頭上の六つの星は、一際煌びやかだった。地上の喧騒を静観するように。
 地上では、思惑と欲望が一点へと集中しつつある。それはそれは何ということも無い、小さな湖であった。ノーサ=タム山に抱かれていながら、些かの干渉も受けないで、静かに眠っていた湖を叩き起こしたのは、人間と呼ばれる侵入者の、何とも的の得ない馬鹿騒ぎである。歳老いた男が、若者を僅かばかり連れて、やれ水を汲め、それを飲め、今度は潜れ、否待て私が先だ、もっとランプで湖面を照らせ、こら勝手な真似をするな、何も見えぬ筈があるまい、やけに深い湖だ、魚が見当らないな、水が冷たいのは当たり前だ、やい乱暴に水面を揺らすな、どうして底が見えんのだ、と引っきりなしに声を立てた。
 歳老いた男は、呪文めいた言葉を次々と唱えた。おいおい、それではさながら、奇術師の押し売りではないか、などとは口が裂けても言えない兵士達には目も暮れず、小首を傾げて、また次の呪文。誰か兵士の一人が、もう帰りましょうよと呟いたのを聞くや、ああ帰れ、お前の様な根性無しは帰れ、偉大なる発見には並みならぬ努力がつきものなのだ、それも分からぬ奴は帰れ、とのたまう。大人気無いもこの上無い。だが男には、その湖に執着するだけの根拠があったようだ。
 高山植物にフローメタミス・コナナという種の植物がある。もっともポピュラーな高山植物で、無論、このノーサ=タム山にも生えているのだが、ここら一帯だけには全く見当らない。ジャックレ・ホンナタという珍しい植物でさえ、そこかしこに生えているという、言わば植物の楽園とも表せる程のこの土地に、何故かフローメタミス・コナナは一本も無い。おや、そう言えばギュナンザも無い。リューボ・リューすら無い。チヒャンも、エンブ・コイジュを生えているというのに、何故か、花の咲く植物に限って姿を見せない。これを偶然と言うのだろうか。
 男は、タグラート地方に伝わる、こんな神話を思い出した。神様は、悪魔の足跡に咲く花が大っ嫌いで、自分の家の周りには一輪も花を咲かせないのだという……。

 二人はあと少しで、尾根を越えられる所だった。
 行く手を遮ったのは、一匹の狸の亡骸であった。胸や肩に突き刺さっているボウガンの矢尻が、二人の方を指していた。
 トトは、リィナが身を乗り出すのを腕を伸ばして止めた。
「罠だ」
トトは狸の頭上を指した。
「あそこにボウガンが仕掛けてある」
 トトは辺りを見回した。
「近くに部隊がいるのかも知れない」
「どっちの?」
「さあ」
「助かるかな」
「さあ」
 闇の中で、ぱちぱちという木の焼ける音ばかりがだんだんと脹らんでゆく。二人は尾根を伝って、慎重に上へ上へと進んだ。トトは既にリュックを棄てている。身軽になって神経を集中させて、森の囁きに耳を傾けるようにして歩いた。罠は糸を張り巡らすもので、単純で安価で、それでいて成功率の高いものだ。トトは木の傍を目掛けて歩いた。しばらくして、製作者の癖を覚えると、今度は僅かに見える糸の一本を辿り始めた。
「その影から出ないで」
と言われて、リィナは大きな木の幹にもたれて息を吐いた。それからトトの様子をそっと覗こうとしたが、
「駄目!」
と、トトがきつく言うのであわてて頭を引っ込めた。
 しばらくして、トトが戻ってきた。手に、ボウガンを持っている。
「お待たせ」
「取ってきたの?」
「罠を張った人は、かなり急いでいたらしいね。糸の数が極端に少ないから、遠回りさせるのが目的なんだろう。罠を張った人は、ここにいないってことだ」
 トトは、罠を潜り抜ける作戦に出た。軽装備で、たった二人の侵入者は、楽に罠を潜り抜けられた。
 尾根は越えられたようだ。下り坂になっている。その向こうにタニモ川らしきものが見える。トトは、待てよ、とまた考え込んだ。ここを誰かが通った、つまり、湖にはどちらかの部隊がいるかも知れない。
 だが、考えてみたところで、二人には選択の予知など無かった。尾根の向こうは火に塞がれている。川を下っても軍隊はいる。
「上流へ」
 不意にリィナがそう言ったので、トトは驚いてリィナを見た。
「捕まったって、構わないわ。でも、炎に焼かれて死ぬのも嫌だし、あの石造りの牢に戻るのも嫌。嫌なことがあったら、私はいつもあそこへ行くの」
 リィナは右足を痛めている。これ以上長くは歩けなさそうだ。落ち着く場所がいる。
「行こう」
とリィナが繰り返した。澄んだ目がトトを癒した。
 川の路は目立つので危険だ。二人はゆっくりと、罠のすぐ横を通った。できるならば、この罠を作った人が、既にあの湖を通過していて欲しい。
 そして二人は、湖に辿り着いた。
 湖を見下ろす崖の上に、二人は行き着いた。真下には森が続いて、その先に草原、湖が見える。湖の対岸が、何やら明るい。
「メルギッチ軍だ」
望遠鏡を覗いてトトが言った。トトの望遠鏡にはたくさんのランプと、兵士達が映った。「あ」
不意にリィナがそう零した。
「どうした?」
「ニタだ!」
 トトが振り向くと、森の奥、遠くからよろよろと何かが来る気配を感じた。
「いけない、そこは!」
トトの予感は的中した。バシュっという空気を切り裂く音、きゅんと鳴く声。
「ニタ!」
リィナが思わず声を上げた。それを合図に森が騒めく。
「しまった」
トトは身を屈めたが、リィナが一目散にニタの傍へ駆け寄ったので、慌てて追った。
 ニタは背中に、既に五、六本の矢を負っていた。それよりも、自慢の二本の角がもぎ取られていて、酷い出血だ。
「ニタ!ニタ!」
「止せ!リィナ」
トトが分け入ろうとしたが、リィナはそれに屈せず、角を失ったニタの頭を抱えて必死に名を呼んだ。
「えっ、今、なんて言ったの?」
きゅん、きゅん。
「リィナ!」
きゅん、きゅん。
「なんて言っているか、分からないよ!ニタ!」
きゅんきゅん、きゅん……。
 ニタの微かな声は、すぐに途切れた。トトは強引にリィナをニタから引き離した。
「ニタが……」
トトは耳を貸していられなかった。リィナをかばうように抱えると、すぐにボウガンを森の奥へ目掛けて射った。
「逃げなくちゃ!」
リィナの目を見てそう言うと、ボウガンを投げ捨ててトトは走った。森の奥には既に、メルティーヌ兵が潜んでいるだろう。横に走った。リィナの背中を包むように走っていたが、前方に動くものが見えたのでリィナの体をすかさず振り回した。ボウガンの矢である。トトは左肩で受け止めたその矢をすぐに引き抜き、また走った。
「森が終わる!」
リィナの声を聞いて、トトは両手でリィナを抱えた。
「きゃあ!」
 二人は、崖を滑り落ちた。

 ジノス=メール=ギチ皇帝は対岸の騒ぎを眺めながら、拳を握った。
「ぬぬ、あれは何たることだ」
すると、ここにいない筈のテガマ=ニニッツの声が、
「敵軍です」
と答えた。びくりとして振り返ると、やはりテガマである。それに後ろに奇妙な一団を連れていた。
「どうしたことだ」
「こちらはメルティーヌ王国軍の元中将と、その部下です」
「何故、ここへ連れてきた」
「閣下、あれは敵の本軍の先発部隊だそうです」
「やや、てこずってますかな」
二人の間にダバが割って入った。口元に笑みを湛えている。
「おお、森に飛び込んだ輩がいますな。どうでしょう、我らが備える、これの威力を知らしめたいのですが」
「それは、……ロンサの発明品だな。ロケットとかいう」
「よくご存じで」

 期せずして、森の中の二つの軍は入り乱れた。だが、メルギッチ帝国側の配置した衛兵達とメルティーヌ王国主軍とでは明らかに違い過ぎた。崖の上にボウガンを従えた数百の兵が並び、眼下の湖を見下ろした。
 ひゃひゃという、奇妙な笑い声を上げながら、兵士の並ぶを分け入るようにして、ボウ=ダウカ大将軍は姿を現した。慣れない山道で手こずったらしく、体中が擦り傷を負っていた。
「こんな夜中に、篝火を炊いて、釣りでもしようと言うのか?ジノス=メール=ギチ!貴様が、歴史に名を残せるのはここまでだ。せいぜい大物を釣り上げるがいい」
 再びボウは高らかに笑った。振り返り、見たかフジル=ティトル、遂にあのジノスの首を目前にしたぞと言いたかった。だが、そこにフジルの姿は無かった。
「何処へ?」
慌ててボウが辺りを見回したその時、湖の対岸で何かが閃いた。
 崖の突端に並ぶメルティーヌ軍の足下で、大きな衝撃を伴った爆発が起こり、足場が崩れて、ボウや兵士達の一部は宙に投げ出された。

 トトは軽く頭を振った。
「大丈夫?」
「ああ」
とだけ言って、またリィナを抱き抱えるようにして走った。
 リィナは振り返り、崩れてゆく崖を見た。
「メルティーヌの新兵器だよ」
トトは舌打ちした。
 崖から逃れても、森からは逃れられない。そしてこの森の中でも、執拗にランプの灯りとボウガンの矢が二人を追った。リィナは既に右足首から先までの感覚を失っている。トトはリィナの右足の代わりとなって走ったり、向かってくるボウガンの矢を避けさせたり、盾となった。背中に二つの矢、だが、トトは立ち止まったり、リィナに苦しさを知られてはならなかった。
 森の中の包囲網は、トトの予想を遥かに上回る大きさであった。前方はもう僅かの所で森が終わっていて、後方には一列に並んだランプの薄明かり、囲まれた二人はよろけるように一本の大木に背中を預けた。トトは右腕を大きく広げてリィナを隠すようにした。やがて灯りは、一定の間隔を保って止まった。トトは観念した。
 だが、灯りを分けるように現れた男は、その途中で足を止めたのだった。
「リィナか?」
 男は右手に刀らしきものを携えている。従えていた兵士の、手にしていたランプを取り上げて、みずから近付いた。トトはこの状況を「最悪」だと判断した。その男の顔に見覚えは無い。だが、容易に察することができる。彼がかの有名な、フジル=ティトルだ。
「父さん……」
リィナはトトの腕にしがみついたまま、零すように言った。トトは迂闊にも、その言葉に反応して、リィナを見た。
 フジルはランプを投げ捨て、三歩で二人の目前に飛び込むと、両手に構え直した刀で、トトの右脇腹を殴り付けるように切った。トトは弾き飛ばされて、地面に叩きつけられた。間髪を入れずにボウガンの矢が一斉に浴びせかけられた。
「止めて!トトは……」
リィナは父親の腕にしがみついたが、彼はその手を振り払った。煩わしいと言いた気な目で娘を見た。
 その時、リィナはゆっくりと手を離した。
 母の顔と、チャルの声と、ゲンツの頬の色と……。
 そして、リィナは見た。フジルの右手の刀のようなもの、それは、ニタの角だった。
「貴方、誰?」
 リィナが呟いた瞬間、強烈な爆音が再び湖畔に響き渡った。

 崖の上の大軍も息を止めた。湖畔の森は、その一瞬で吹き飛んだ。爆風が煙を上げ、対岸のランプの灯に照らされた。
 煙が退けると、辺りが騒ついた。兵士達は、どちらの軍の者も一様に震えた。そして、その次の瞬間……。
 瞬間、僅か一瞬だったが、湖が光ったのだ。
 皆、声を失った。静寂が辺りを包んだ。強烈な光が瞼に焼き付いて離れなかった。
 やがて、ジノスが声を張り上げて笑い出した。
「見ろ!見るがいい!『神の力』だ!本当にここにあるのだ!見付けた、遂に見付けたのだ!」
 ジノスの声が湖畔に響き渡った。何度も木霊し、それを聞いてからジノスは続けた。
「平和だ、これで恒久の平和の下に、我がメルギッチ帝国が大陸を統一するのだ!素晴らしい、これで私は不死身になれるのだ!」

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